2012/10/26

【けんちくのチカラ】歌手のジュディ・オングさんと「帝国ホテルライト館」

ライト館 孔雀の間
オレンジ色のロングドレスに初めてのハイヒール。アメリカンスクールの卒業生を送り出すダンスパーティー「プロム」(プロムナード)で、17歳だったジュディ・オングさんは、同級生と一緒にそんな最高のおしゃれをした。「これが社交界へのデビューなんです」。心に深く刻み込まれた人生最高の思い出だ。その舞台が、今は愛知県の明治村に一部をとどめる帝国ホテル2代目本館「ライト館」である。現在の建物の一代前のもので、米国建築家のフランク・ロイド・ライトが設計、1967年に閉鎖している。「豪華さ、階段を上って行く入り口のアンジュレーション(起伏)などが、胸の高鳴りや憧れを演出してくれる美しい建物でした」

◇胸の高鳴り、憧れ演出する美しい建築

ジュディさんが帝国ホテルのライト館で参加したプロムは、閉鎖・解体が決まっていた同館での最後の開催だった。
 「本当にプロムというのは特別な日なんです。女の子は1カ月前の2月くらいからみんなきれいになっちゃって。それはプロムで男の子から誘われるため。髪の毛のスタイルが突然変わったり、マニキュアを塗り始めたり。ドレスのデザインを聞きあったりわいわいやっていましたね。ライト館が明治村に移る最後の年でしたので記念すべきプロムでもあったんです」
 入り口が階段になっていて、そのアンジュレーションが舞台に上がっていくイメージだったという。
 「私たちは卒業生を送り出す1つ下のジュニアということで、初めての経験でした。入り口で一段一段、階段を上ってロビーに入ると、タキシードを着たホテルマンが誘導してくれました。会場は確か、孔雀の間だったと思います。そこに行く時にもまた階段の演出がありました。母親にあまり深くお辞儀をするとスカートを踏んじゃうから気をつけるよう言われてたのですが、階段に差し掛かる時、踏んじゃったんですよ。その勢いで前に倒れそうになったところをエスコートのアメリカ人男性がぱっと支えてくれたんです。それは本当に素敵でした」

◇「プロム」で社交界デビューした舞台

 孔雀の間に入った時は、とにかく豪華という印象だったという。「柱1つひとつがアートでしたね」
 外観についても、「何とも個性的で、レンガを積み上げてつくったモザイクのような風合いでした。オリエンタルな感じを受けたのはそのような素材を使っての設計だったからなのでしょうね」と指摘する。
 「豪華さや階段の演出などは胸の高鳴りのような人間の精神を揺さぶるものを持っていました。光の取り込み方、パーテーションの取り方など日本建築の素晴らしいところを数多く取り入れていたとも思います」
 若者が当時帝国ホテルでコーヒーを飲むということは極めてぜいたくなこと。「でも『プロム』ではイブニングドレスで入ることができる。人生の最高の思い出です。私の仕事は夢を追う仕事。その意味で、ロマンチックでエレガントそのものだったライト館は残してほしかったですね。中央玄関が再現されている明治村には何度も行ってます」
 現在の帝国ホテルも、さまざまな思い出があるが、「失恋おしるこ」でお世話になったと茶目っ気たっぷりに笑う。「失恋して行き詰まった時に豪華な帝国ホテルで美味しいおしるこを食べて心の痛みを取ってもらうんです」
 日本に来た3歳の時、家は日本建築だったが中は「台湾式」。畳の上にテーブルを置いての生活だったという。「隣りに遊びに行くと畳に座って、ちゃぶ台と床の間などがありました。小さいころはそんな2つの文化を行ったり来たりしていましたね」
 30年来続けている木版画の重要なモチーフに日本家屋がある。「兄が建築家という影響もあるのですが、時代劇の撮影で8年間京都に滞在したとき、日本建築の素晴らしさに触れました。まさに建築に『魅せられて』ですね」(笑)。

子供時代のジュディさんと母
◇変わりゆく建物を版画にとどめる


『雨過苔清』
1999年日展入選作品『雨過苔清』は、茶室や書院を持つ大正初期に建てられた山荘「清流亭」を題材にした。数寄屋造りの始まりとされる建築だ。「冬の襖(ふすま)から夏の御(み)簾(す)のしつらえに変わるときにうかがいました。雨上がりで、庭の苔の色が見事に発色し素晴らしく美しかった。畳には緑のかげが映っていました。涼しさを全部家の中に取り込んでいるんです」。御簾の半透明の世界に挑戦した作品だ。
 日展で特選を受賞した『紅楼依緑』は、名古屋の料亭「稲本」を描いた。「いまは料亭ではなくなりましたが、こうして姿を変えていく建物が、私の版画の中で生き続けていってもらえればうれしいです」

◇受け継がれるライトの建築思想


明治村に移設された旧帝国ホテル玄関
東京・内幸町の現在地で3代にわたって重厚な存在感を保ち続ける帝国ホテルは、建築史において2代目の「ライト館」が最も個性を放っていたといえる。米国の建築家、フランク・ロイド・ライト設計による鉄筋コンクリートおよびレンガコンクリート造の客室数270室の3階建て(中央棟5階建て)建築だ。
 1923年9月1日、関東大震災が発生したその日が竣工式典だった。周辺の多くの建物が倒壊、火災の被害を受ける中、ほぼ無傷で生き残ったという「物語」を多くの人の心に刻んた。
 建築史家で東大名誉教授、青山学院大教授の鈴木博之さんはこう話す。
 「ライトをスカウトして設計させたのは当時の総支配人、林愛作さん。英断だったと思います。日光東照宮に似ているという説や壁の絵文字彫刻がマヤ調だとも言われます。ライトは決して一つの要素でデザインしたわけではなく、多様なものを取り込んで、独特な建築をつくりあげました。そして完成したのが関東大震災発生の日という歴史的なストーリーとともに知られることになりました。隣りには建築家・村野藤吾が設計した日生劇場があります。帝国ホテルを意識した建築とされています。名建築が名建築を生んだ例といえます」
 そのライト館は、外国人観光客などの増加に伴って、270室では対応しきれず67年に閉鎖、777室の新本館に建て替えられた(現在はリニューアルされ570室)。
 「ライト館を取り壊しての建て替えは大きな問題になりました。当時の佐藤栄作首相が渡米した際、米国担当者に明治村で保存するという政治決着をしたのは有名な話です。明治村には中央玄関が再生され、結婚式に使われるなど、魅力的な空間を手に入れたことは事実です。ただ全面建て替えが正しかったかどうかは難しいですね」
 初代の帝国ホテルは工部省技手などを務めた渡辺譲が設計。1890年竣工し22年に失火で全焼した。2代目がライト館、3代目が現在の本館で、内務省技師などを務めた高橋貞太郎の設計。83年竣工の帝国ホテルタワーは山下設計が担当した。

◇ジュディさんのプロフィール

 台湾生まれ。3歳で来日。中華学校からアメリカンスクールに転校して9歳で「劇団ひまわり」に入団。11歳の時、日米合作映画『大津波』でデビュー。その後テレビドラマ、映画、舞台に多数出演。歌手デビューは16歳。数々のヒットを飛ばし1979年『魅せられて』で日本レコード大賞。木版画家としても国内外で展覧会を開催。日展入選13回、2005年に日展特選受賞。現在、台湾で個展を開催中。英語、中国語、台湾語、スペイン語、日本語を話す元祖マルチリンガル・タレント。
 12月12日には初カバーアルバム『Last Love Songs~人には言えない恋がある~』(ワーナーミュージックジャパン)をリリースする。『つぐない』『異邦人』『あなたならどうする』など70-80年代の失恋・恋愛ソングを収録。『魅せられて』の新録も。先行シングルとして11月28日には『別離/どうぞこのまま』がリリースされる。
HPアドレス http://www.judyongg.com/
建設通信新聞(見本紙をお送りします!) 2012年10月26日 9面

 

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