2012/09/15

建設通信新聞の建設論評 「建設技術者の矜持」

会社人間がリタイアすると、それまで見えなかった部分が見えてくる。
 まず、個人に対する組織の扱いが一転するのに驚く。
 会社にいたときは、資料などの請求や質問は電話で容易に協力を得られたが、リタイアした個人はまず何者かを疑われ、次いで組織との損得を計られ、多くは断られる。
 業界団体の主催する展示会に行くと、名刺があれば無料になるが、組織に属さず名刺がない者は有料ということがある。解決策は自分で勝手に会社を興しパソコンで名刺を作ることである。これで立派に通用するから不思議。かつて会社という看板に寄りかかっていた自らを省みて複雑な心境だ。

 次いで、在職中の行動への疑問が顔を出す。
 企業には社会的責任があるが、在職中は品質・工期・安全よりも利益第一の他律的な行動を優先させたものは何か。出世願望か、自己満足か、使命感か、愛社精神か、どれもしっくり当てはまらない。
 労務費の手形払い、指し値、工期の押しつけ、不都合の責任転嫁、駐車料金の負担、一斉清掃、補修費の一方的差引き、安全無視、人格の否定、下請会社・労働者に対するべっ視など、いまも以前と変わらぬ下請業者からゼネコンへの批判の声を聞く。
 建設現場の管理者は技術者である。技術者は科学に基づいた思考と行動で人倫を守らねばならない。技術者はいかなることも責任転嫁をせず、精神的向上に努めなくてはならない。そして技術者は社会から尊敬されなければならない。だが運営管理の忙しさにかまけて技術者個人としての矜持(きょうじ)を失念しがちになる。
 加えて、仕事の真の怖さがじわっと現れる。
 例えば安全管理をとっても、現場所長は毎日何十人、何百人という作業員を、朝来た時と同じ状態で夕方には家に帰す責務があると同時に、顧客との工事請負契約を履行すべき義務がある。なぜ、こんな大事なことを気負わずにできたのか。
 鉄道やバスの運転手は、休日明けの最初の運転は怖いが、時間とともにその怖さが薄れるという。建設現場の高所作業でも同様のことを経験する。
 「慣れだ!」
 思うに、技術ではなく長年のパターン化した手順と慣れ、すなわち勘と経験と度胸(KKD)で工事を動かしていたのだ。慣れは怖さをまひさせる。
 最近各地で発覚した偽一級建築士事件は個人の問題だけでなく、建築を取り巻く社会が、同様の形式化した手順と慣れに何の疑問も持たなかった証左だ。
 偽建築士は偽技術者だから、真の技術者としての誇りや正義は本質的にない。
 暑さも和らぎ、物事を考えるにはよい季節になった。
 いま、自らの仕事に対して技術者としての矜持を問うてみる、携帯電話を持たず一人旅をしてみる、そんな時を持つ。
 忙しくてそんな暇はないというだろう。
建設通信新聞 2012年9月14日12面

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