2012/04/25

「旧東京音楽学校(東京芸術大学)奏楽堂」を語る! 米良 美一さんにインタビュー

 現在も日本歌曲やクラシックのコンサートを続けている「旧東京音楽学校(東京芸術大学)奏楽堂」は、東京・上野公園の一角に瀟洒(しょうしゃ)な佇まいを見せる。1890年(明治23年)、木造の東京音楽学校新校舎が完成し、その2階に日本初の純粋な音楽ホールとして誕生した。1929年に日比谷公会堂がオープンするまで、洋楽公演の中心を担ったことから歴史的意義は大きい。70年代に入り老朽化で存続が危ぶまれたが、著名な音楽家や建築家の運動などで87年、300mほど道を隔てた現在地に復元移築された。歌手の米良美一さんは十数年前、ここでの日本歌曲コンクールで3位に入賞。以来、何度かコンサートを開いている。「滝廉太郎先生などがここで日本の文化向上に情熱を持って取り組まれた。そうした音楽の先輩に思いを馳せながら歌えるのはほかのホールにはない醍醐味です。木造の奏楽堂がいまも大切に使われていることには敬意を払っています」

「旧東京音楽学校(東京芸術大学)奏楽堂」
◇西洋の音楽公演の中心地

 奏楽堂は、明治中期から昭和初期まで、西洋の音楽公演の中心地であり、また、日本歌曲という新たな音楽を生み出した場所でもあった。日本最古といわれるパイプオルガンがあることでも知られる。多くの演奏家を育て、本邦初演も数多く行われた。
 「この舞台で滝廉太郎先生がピアノを弾かれ、三浦環先生が蝶々夫人を歌われました。わが国の西洋音楽の発祥の地であり、尊敬する多くの先輩が舞台を踏まれています。木造ですから、音響を追求した近代のコンクリートのホールとは比べられませんが、温もりのある音がして、それほど大きくない(338席)ので客席の隅々まで音が届きます。何よりも、音楽の諸先輩が舞台に立った特別な空間ですので、歌いながらタイムスリップできます。情熱を持って日本の文化向上のためにがんばってくださった先輩に思いを馳せながら歌えるのは、ほかのホールではないこと。歌わせていただくことに意味があると思っています」
 70年代に入って建物の老朽化から、取り壊して新しいホールを建築する話が持ち上がった。いったんは、愛知県の明治村への移築保存が決まったが、音楽家の芥川也寸志、岩城宏之ら「7人の侍(音楽家)」と建築家、学生、市民らによる「歴史的建造物は土地の歴史と密着したもの」との現地保存運動が高まったことで、明治村への移転はなくなった。
 芸大のある上野で西洋音楽を根付かせた歴史的価値は、やはり上野の地で継承すべきであるという考え方だ。最終的には芸大キャンパスが狭かったため、現地保存はできなかったが、台東区に譲渡され、一度解体し忠実に復元して上野公園内に移築された。

◇江戸っ子大工の技

 「建築のことを考えますと、明治の中期に西洋風の建物を江戸っ子の大工さんたちがよく造ったものだと感心します。見た目もとても美しい。音楽家だけではなく、当時建築に携わった人の思いも伝わってきます」
 公演中には上野公園の自然の音も聞こえてくる。
 「鳥の鳴き声なんかも聞こえてきます。それがまたいいんです。ヨーロッパなどではもともと、大広間やサロンで演奏会を開いていたのですから。密閉された空間で音質を追求するようになったのは近代になってからです。音楽も自然の一部だったことを考えれば、奏楽堂は原点に近い。時々、焼きいも屋さんの声や救急車の音も入ってきますが、それも密閉されたコンサートホールとは別の楽しみ方ができます。たくさんあるガラス窓から見える景色も、音楽に影響を与えます」
 出身の宮崎県は天孫降臨伝説の地であり、父親が林業の仕事だったこともあり、子どものころから無垢の木に触れる機会が多く、いまでも木のぬくもりが大好きだという。デカダン趣味で、トラディショナルやヒストリカルなものが好きなのもこうした原風景があったからだ。

◇自邸設計にもこだわり

 「木の香りや肌触り、木目の美しさも好きです。ヒノキのお風呂に入ると浴槽の木肌をずっとさすっています。木に触れているだけで母親の胎内にいるような安心感があります。30歳の時に実家を建てるのに建築家の方にお願いしました。結構ディスカッションしましたが、もっと勉強しておけばよかったと思うことが後からありましたね。とにかく木を使ってほしいとお願いしました。ぼくが思っているイメージを本当にうまく実現してくださいました。お金はかかりますが、アーティストとアーティストですから。ただ建築家はアーティストでありながら、大工さん方を取りまとめたり、行政と協議をしたり大変だと思います。音楽でいうと指揮者ですね。建築家の方からは、ぼくがはっきりしているのでやりやすいと言われました」
 年齢を重ねて先人に思いを馳せることがより強くなったと話す。
 「奏楽堂の音楽家の方々も、あるいは神社仏閣もそうなのですが、情熱を持って一生懸命尽くして下さった先人の思いをずいぶん考えるようになりました。そんなこともあって最近、昭和30、40年代の歌謡曲のカバーアルバムを出させていただきました。『ヨイトマケの唄』など10曲を収めています。建物を大事に残していくように、音楽も倉庫にしまったままにしないで、時々出して歌っていくことが必要です。後の世に引き継ぐ役割をこれからさせていただこうと思っています」

 (めら・よしかず)映画『もののけ姫』の主題歌を歌って一世を風靡し、その類まれな美声と音楽性で欧米でも高く評価されている。また、テレビ・ラジオにも多数出演し、親しみやすい人柄と個性豊かな語り口は、世代を超えて人気を集めている。2007年、大和書房から自叙伝『天使の声~生きながら生まれ変わる』を出版し、これまでの人生から得た経験をもとに、全国各地で講演会も精力的に行っている。
 11年11月、韓国の童謡や民謡などを原語で歌っているCDアルバムを韓国のレーベルより初リリースした。12年2月、昭和の歌謡曲をカバーしたCDアルバム『名曲集vol・1』を発売。
 第12回日本ゴールドディスク大賞、第21回日本アカデミー賞協会特別賞として主題歌賞をそれぞれ受賞。
 米良美一オフィシャルホームページ http://www.lamela.co.jp/

◇建物解説 日本初の本格的音楽ホール
 建築設計=山口半六、久留正道 音響設計=上原六四郎


「奏楽堂」外観
 上野公園の西北で、いまもコンサートホールとしてにぎわっている明治期の木造建築が「奏楽堂」である。正式名称は「旧東京音楽学校奏楽堂」。東京芸術大学の前身、旧東京音楽学校の講堂兼音楽ホールとして1890年に造られた。木造2階建て。国の重要文化財だ。
 この奏楽堂こそが、日本に西洋音楽を定着させ、山田耕筰や滝廉太郎といった日本歌曲の生みの親を育てた場所だった。日本で初めての本格的な音楽ホールという歴史的な顔を持つ。それまでの音楽会場は、上野精養軒、鹿鳴館などだった。
 現在の奏楽堂は、現地でそのまま保存されたわけではない。解体して愛知県の明治村に移築する案がほぼ固まりつつあった。しかし、建築家と音楽家有志が「土地の歴史の継承は現地保存で」と原理原則を主張、市民や行政、政治を巻き込んで「奇跡的」に、歴史を継承できる同じ上野公園の敷地内に移築された。1987年のことだ。奏楽堂が西洋音楽に果たした役割の大きさがうかがわれる。音楽家では芥川也寸志、黛敏郎らが名を連ねた。当時の台東区長・内山榮一氏の「文化財は区外に持ち出さない」との表明は運動成功の大きな要因になった。
 大学構内ではないが、もともとの所在地から300mほどしか離れていない。いったん解体し、移築先で忠実に復元した。
 保存活動の一部始終は、移築された同じ年の87年に発刊された『上野奏楽堂物語』(東京新聞出版局編)に、複数の執筆者が熱く語っている。
 この本の中で「奏楽堂のことなら表から裏まで知り尽くしている男」と紹介されているのが東京芸大名誉教授で建築史を研究する前野堯(まさる)さんだ。保存活動で真っ先に動いた人でもある。ステージ中央に置かれている日本最古といわれるパイプオルガンは、英国・ロンドンでの第1回万博に出展されたものではないか、との情報を得てヨーロッパにそのルーツを確かめにも行っている。
 建築設計は当時の文部省技官の山口半六と久留正道。音響設計が旧東京音楽学校で音楽理論と音楽史を教えていた上原六四郎だった。
 「ここでは外から入ってくる余計な音などを消す(吸音する)ため、おもしろいことに壁と床に藁やおがくずが詰められています。音の反射は3面にある窓ガラス、エコー防止として天井の四隅がアールになっているのも特徴です」
 天井のホール中央部分がかまぼこ型に持ち上がっているのも珍しい。これは音響面と換気などのため。当時は少なかった階段状の床を採用している。
 前野さんは「建築家はその土地の文脈(歴史)を残すべきです。地域の歴史は住む人の誇り。誇りを持てばいいまちができます」と話す。
(移転復元施工=大林組)

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