2013/10/07

【建設論評】著作権と作品の運命 新梅田シティの庭園リニューアルに思う

新梅田シティ(写真:Jo)
新梅田シティの庭園リニューアルに対して、著作権侵害で工事中止の仮処分申請を行っていた造園家に、申請却下の判断が下された。
 大阪地裁は造園家の著作権を認めた上で、商業施設と一体となった庭園のリニューアルは、所有者の経済的利用権の観点から認められると判断したのである。
 一般市民の感覚から眺めてみれば、民間の商業施設に設けられた庭園が、造園家の著作権侵害を理由にリニューアルできなくなることは、おかしなことに違いない。土地を経済活動に生かす権利を奪われたのと同じことであり、土地活用に大きな支障をきたすからである。

 一方、自らの設計に自信と誇りを持ち、その著作権を主張する造園家の強い意思も敬服に値する。自分が命を注ぎ込んだ庭園に対する愛着、あるいは執念とも言える熱意が行動を起こさせたのかも知れない。
 ただその感覚は、一般にはなかなか受け入れられないだろう。設計者に選ばれて設計をまとめ上げ、クライアントの了承を得て工事を完成させるまでが、設計者の役割である。
 高度な職能を発揮して、クライアントや社会に貢献し、その対価を得るのであり、それは建築においても同様である。そして工事が完了した建築や庭園は、そこから一人歩きを始める。生みの親である設計者や施工者の手を離れて、社会の荒波の中で一人立ちしていくのである。
 すばらしい作品が社会に適応できずに短命に終わることもある。経済理論の重圧に押しつぶされることもある。あるいは長い年月を生きながらえて、新たな評価を得る作品もあるだろう。それは各々の作品が持つ運命なのかもしれない。
 著作権を認めた判断を、造園家は大きな前進だとコメントしている。ただリニューアルを阻止できない著作権にどのような意味があるのか、課題を残す判断でもある。例えば契約時に設計者が著作権を主張したとしても、そのような契約が成立することは極めて稀であろう。
 長い歴史の中を生き残ってきた建築や庭園がある。すばらしい設計者に恵まれ、そして理解ある所有者の保護を受け、さらに時代や社会の幸運に支えられた作品である。
 誰もが望んだその幸運を、実際に享受できたのは、ほんの一握りの作品に過ぎない。それでもそのような作品が生き残っている事実は、今後の作品の運命に小さな希望を与えている。
 一人立ちした作品がどのような運命をたどるのか、力の限りを尽くしてその生き様を応援するのも良し。そして心静かに移り行く運命を黙して見守るのも、もちろん良しとすべきなのだろう。 (泰)
建設通信新聞(見本紙をお送りします!)

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