2016/03/06

【けんちくのチカラ】客に手が届く、格別の臨場感 シンガーソングライター・太田裕美さんと渋谷ジァン・ジァン


 シンガーソングライターの太田裕美さんは、デビューから22年目の1996年、結婚や出産などで10年ほど休止していたソロのライブ活動を再開した。長いブランクで不安も大きかったが、再開の初ステージとなった「渋谷ジァン・ジァン」とそこに集まった大勢のファンが、自信を取り戻させてくれた。「お客様に手が届きそうな小さなライブハウスですので、『待ってました』という温かい心がより一層強く伝わってきました。一曲ごとに歌いたい気持ちがどんどん強くなっていきましたね」。その時、「ジァン・ジァン」という素敵な場所があって良かったと思ったという。固定席百数十席ほどと立ち見の本当に小さなライブ空間から、後のビッグアーティストが数多く巣立っていった。いまも喫茶店などとして現存するが、当時のこの空間に得体の知れないパワーを見る思いがする。(撮影:中川正子)
 
地下に渋谷ジァン・ジァンが入っていた東京山手教会は、50年前の竣工当時(下)と
外観はまったく変わっていない。

◆一時代つくった「聖なる場所」
 太田裕美さんが初めて渋谷ジァン・ジァンに足を運んだのはデビュー後の1975年ごろ。テレビ番組に一緒に出演したロック歌手・宇崎竜童さんのライブを見るためだ。
 「ジァン・ジァンの存在は知っていましたが、アングラ芝居のイメージがあったので、そこでの音楽ライブってどういう感じなんだろうと、興味がありました。行ってみて、ステージがフラットで客席とすごく近くて。ちょっと驚きました。ライブハウスの原点のような場所というのが最初の印象です」
 その後も何度か観客として出かけ、79年に初めて舞台に立つ。
 「デビューから5年経っていましたので、大小さまざまなホールやライブハウスでコンサートを経験してきました。その中でもジァン・ジァンはかなり小さいライブ会場でした。お客様に手が届きそうな距離感は、それまでの公演とはまったく違う臨場感がありました。こちらで歌っている最中でも、客席側での小声まで聞こえる感じ。本当にライブ感の強いところでしたね」
 82年には、歌手活動を休止して単身ニューヨークに。8カ月の滞在後、帰国して活動を再開したが、結婚、出産のため、ライブからしばらく遠ざかっていた。
 「子どもが少し大きくなり、自分の時間が持てるようになって、またライブを始めたいなぁと思うようになりました。ただ、もうライブ活動から随分離れていましたので、再開して歌っていけるのか少し自信がなくなりかけていたんです。それでも何とか挑戦したいと思っていたところに出演が決まったのがジァン・ジァンだったんです。ライブ再開の初舞台です。そんな思い出深い、ご縁のあるところです」

◆自信を取り戻させてくれた心通う空間

東京都渋谷区のさくらホールで(撮影:中川正子)

 子育て中にもコマーシャルソングのシングルなどは出していたが、ソロのライブはほぼ10年ぶり。
 「自分が今だから歌える歌、歌いたい歌を選曲しました。声が出るのかどうか本当に心配で、バンドを編成して迷惑をかけるといけないので(笑)、一人でピアノだけの弾き語りにしました。タイトルは『ピアノ弾き語り60分1本勝負』です」
 ライブの初日は、どのくらいのお客さんが来てくれるのかわからなかった。
 「不安な気持ちで初日を迎えたのですが、ものすごくたくさんのお客様が来てくださって、久しぶりのコンサートに『待ってました』という温かい雰囲気を感じました。それが、あのこじんまりとした空間だったことで、お互いの心の交流のようなものがとてもスムーズに伝わってきたのを覚えています。ですから、1曲ごとにどんどん歌いたいという気持ちが強くなっていきました。無事に公演が終わって、ジァン・ジァンという素敵な場所があって良かったなあとしみじみと思いました」
 一つの時代をつくった歴史的な「聖なる場所」といってもいいと話す。「そう感じていらっしゃるアーティストは多いのではないでしょうか」
 最近では3年続けて公演している東京都渋谷区のさくらホール(渋谷区文化総合センター大和田)がお気に入り。
 「いすがとても座りやすく、音響も素晴らしいです。700席ちょっとというのはコミュニケーションをちょうど取りやすい大きさ。まだ新しくてきれいです」
 長野県軽井沢町の軽井沢大賀ホールも「歌っていてすごく気持ちが良いホールでした」と言う。「声楽家でもあった大賀さんが力をお入れになってつくったホールだけあって客席はもちろん、歌い手にとっても心地良いホールです」
 東京都荒川区で生まれ、3歳の時に父親の仕事の関係で埼玉県春日部市に引っ越して、今でも実家がある。
 「父が包装パッキンの会社をやっていまして、当時古新聞を天日干しして大型家電の梱包の資材をつくっていました。まだ田んぼと畑だけだった春日部市で広い敷地に冷蔵庫やテレビの型を取った新聞の梱包材を干していました。型を作る工場から干す場所まで運ぶトロッコがあって、それに乗って遊びました。それと家の屋根が平らで、そこにつながる階段を上がると、ベランダのような場所がありまして、そこによく上って、おやつを持ってマンガを読んだり、ぼんやり空を見たり、自由にのびのびした少女時代を過ごしました」
 駅から5分ほどの場所で、「周りは高い建物がほとんどなくて、当時は駅のホームから家が見えました」と笑う。「とても楽しい思い出が私の原風景です」


(おおた・ひろみ)「雨だれ」「木綿のハンカチーフ」「赤いハイヒール」「九月の雨」「さらばシベ リア鉄道」などを歌い、現在のJ-POP女性ボーカリストの道を開いた。2014年、敬愛する筒美京平さんのトリビュートカバーフルアルバム 『tutumikko』発売。また、“なごみーず(伊勢正三・太田裕美・大野真澄)”のライブ10周年、200回記念CD『アコースティックナイト 3rd』を発売。
太田裕美オフィシャルホームページ“水彩画の日々”
http://www.sonymusic.co.jp/Music/Info/hiromiohta/
Eメール
hiromi-vr@s02.itscom.net
=コンサート=
『太田裕美コンサート2016』
▽3/26(土)午後3時(栃木県・大田原市ピアートホール)
▽5/22(日)午後5時半(京都市・ロームシアター京都 サウスホール)
『な ごみーず(伊勢正三・太田裕美・大野真澄)コンサート』
▽3/6(日)午後4時半(山梨県都留市・都の杜うぐいすホール)
▽3/18(金)午後7時(沖縄 市民会館大ホール)
▽4/17(日)午後5時(埼玉県加須市・パストラルかぞ)
▽6/25(土)午後5時(愛知県・江南市民文化会館)

『オーケストラで歌う青春ポップスコンサート』=太田裕美、庄野真代、渡辺真知子 N響団友オーケストラ
▽3/20(日)午後4時(福島県・棚倉町文化センター)

◆建物概要
「渋谷、公園通り、山手教会の地下にそれは待っていた。見上げるほどの高い天井、すべて斜めに立ち上がる壁面。崇高な空気が舞い降りてくる空間のただ中に立ち尽くして、了作は舞台、客席、音響、照明の姿が立ち上がる快感に酔った。これが探し求めていた小劇場だ」
 渋谷ジァン・ジァンとそれを開設した高嶋進さんとの劇的な出会いの瞬間である。高嶋さんが、自伝的小説『ジァンジァン狂宴』(左右社)で、柱が斜めに建ち上がる不思議な空間の感動を了作という主人公に語らせた場面だ。
 同書では、こうした空間が後にアンダーグラウンドの拠点になっていくのに重要な役割を担っていたことが読み進めるうちによく分かる。さらに1969年開設当初に客が入らなかった苦悩、4階に1000人会堂と呼ばれる礼拝堂を持つ教会との確執の一方、中村伸郎の『授業』上演、高橋竹山の津軽三味線公演、吉田拓郎や井上陽水といったフォークの旗手の登竜門、時代を代表する歌手、美輪明宏の出演など華々しい物語が時には詩的につづられる。

渋谷ジァン・ジァンが閉館した2000年4月、最後のスケジュール

 ジァン・ジァンが地下に入居していた日本基督教団東京山手教会は、1966年竣工当時の姿のまま現存する。
 ジァン・ジァンの空間は今は喫茶店として利用されている。20×20mの敷地に何とか1000人の信者を収容できる教会をつくりたいと牧師の平山照次さんが構想。アール・アイ・エーと毛利建築設計事務所が設計し、熊谷組が施工した。
 当時アール・アイ・エーで設計を担当した近藤正一名誉会長によると、高嶋さんに「崇高な空間」と言わしめた斜めの壁面は、1000人の空間をつくるために構造上やむを得ずできたものだという。
 近藤さんは「よくぞ利用したなと思いました。ぼくも中村伸郎の芝居を見ましたが、大きな柱も気にならずに一体になれる場所でしたね」と振り返る。
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