2015/12/07

【シリーズ戦後70年】建設業・夏の時代 産業行政への転換からバブル期へ

 ■バブルが問題意識を麻痺/業行政から産業行政に
 建設省の業行政は静岡事件を契機に、指名競争入札を前提とした独占禁止法(独禁法)と建設業の商慣習との関係整理、建設産業近代化支援など多くの課題に直面していた。また当時の建設省幹部からの「もっと建設業課が評価されてしかるべき」との声を追い風に、83(昭和58)年4月に誕生したのが「建設業構造改善対策官」だった。翌84年には構造改善対策官を始め課長補佐が事務局を切り盛りする「建設産業ビジョン研究会」がスタートした。学識者や行政だけでなく業界関係者も参加しての市場分析を含めた産業ビジョンは、建設省だけでなく業界にとっても初めての取り組みであり、建設省にとっては産業行政への転換を打ち出したものとなった。

 研究会が86(昭和61)年2月に公表した『21世紀への建設産業ビジョン--活力ある挑戦的な産業を目指して』と題した報告書は、戦後40年の間、建設業法制定によって請負業として建設業が地位を確立し、高度成長期には拡大する産業規模拡大に合わせるように政策的に企業数を増加させてきたことに伴う、さまざまな矛盾を浮き彫りさせた意味からも画期的だった。

■市場原理機能働かない矛盾
 ビジョンは、建設市場について「市場原理が十分機能していない」と指摘した上で、需給ギャップの拡大と労働生産性の低下を問題提起。大手から中小零細まで市場原理に基づく公正な競争を通じて、技術力や経営力に優れた企業が成長し、非効率な企業が淘汰されることが必要とした。
 この86年の建設産業ビジョンの問題提起が、95(平成7)年の建設産業政策の方向性を示した『建設産業政策大綱』、02(平成14)年の『建設産業再編促進策』、07(平成19)年の『建設産業政策2007』、11年の『建設業の再生と発展のための方策2011』、12年の『同2012』などの底流に一貫してあった。
 しかし81年の静岡事件を契機に当時から今につながる建設業界の根源的問題を指摘し、建設省は業界の自助努力を誘導し支援する役割を果たすことを建設産業政策として位置付けた『建設産業ビジョン』は、85(昭和60)年9月のG5(先進5カ国蔵相会議)のプラザ合意によって、「建設業冬の時代」の終焉とバブル時代を迎えることで急速に関心を失った。一気に建設需要が拡大しバブル期に入ったことで、結果的に建設業界は自らのさまざまな課題への取り組みを先送りする形となったからだ。
 当時、米国は財政と国際収支という「双子の赤字」を抱え、日本に対して対米貿易の是正と日本国内の市場開放を求める一方、プラザ合意によって各国協調介入によるドル高是正へ動いていた。その結果、対ドル円相場も1年間で5割近い円高によって自動車、エレクトロニクスなど輸出関連産業に打撃を与え、国内景気も冷え込んだ。
 そのため、首相の私的諮問機関が、住宅や都市開発、社会資本整備による内需拡大など6項目を掲げた報告書、いわゆる『前川リポート』を公表。これが、内需主導型経済への転機と、86年から90年代初頭までのバブル時代をつくった。
 86年9月、政府は事業規模3兆6360億円の総合経済対策を決定。2カ月後の11月には80年以来となる建設国債増発による1兆4000億円の公共事業費追加を行った。また翌87年5月にも一般公共事業費2兆4500億円を柱にした6兆円という過去最大規模の緊急経済対策を打ち出した。


■プラザ合意受け内需主導に舵
 その結果、公共事業も対前年度比で86年度7.4%増、87年度8.7%増と82年度以来の増加に転じた。また民間投資も新設住宅着工戸数が85年度125万戸から86年度には140万戸、87年度には173万戸と急拡大し、88年度から90年度まで160万戸の高水準を維持した。
 プラザ合意を転機に、内需主導型経済へ転換し、相次ぐ経済対策によって、「建設業冬の時代」から「真夏の時代」を迎えた建設業界にとって、さらに追い風が吹く。91(平成3)年6月に政府が打ち出した2000年までの10年間に430兆円規模の投資を行う「公共投資基本計画」だ。内需拡大策として生まれた公共投資基本計画は、質・量の両面で当時の業界に一定の安心感を与えた。
 内需主導型へ転換した経済政策を国土政策面で裏打ちしたのが、多極分型の国土形成と重層的ネットワーク形成を柱にした87(昭和62)年の「第4次全国総合開発計画」(四全総)だった。この四全総の考え方をもとに、リゾート法、高規格幹線道路網計画、さらには民活法が策定・整備され、全国各地のリゾート開発や東京湾横断道路整備につながった。

■公共事業の本質見失う結果に
 しかし、内需拡大を目的にした景気対策としての公共事業が一定の役割を担えば担うほど、また日本の内需拡大策が米国からの市場開放要求と裏腹の関係から公共投資基本計画が策定されたことは、皮肉なことに公共事業のフローとストック両面からの効果を判断するという冷静な本質論や、安定的・継続的な事業が建設業経営に必要という視点を見失う結果を招いた。さらに日米建設摩擦に呼応するかのように浮上した横須賀米軍基地工事、関西国際空港工事、埼玉土曜会事件など度重なる独禁法違反はバブル崩壊後の緊縮財政への移行後、公共事業の費用対効果への疑義や公共事業悪玉論の台頭を招くことになった。
 バブル期=建設業夏の時代は、官民合わせた建設投資額をピークに押し上げた。ただその一方で同時進行で進む日米構造協議やバブル崩壊によって、特に地方建設業界を窮地に追い込む事態になるとは、需要急増に追われる当時の業界の誰も予想していなかった。

◇次回は12月11日付、「公共事業批判」と題して、100年ぶりの入札制度大改正がもたらした、発注者と受注者の影響などバブル崩壊後に建設業界が直面したさまざまな動きを追います。
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