2015/12/06

【シリーズ戦後70年】建設業・冬の時代 「静岡事件」の衝撃


 1981(昭和56)年度、名目建設投資が初めて50兆円の大台に乗った。しかしこの年は、前年80年からバブル期に入る86(昭和61)年までの「建設業冬の時代」の入口であり、建設省と建設業界にとって最大の試練を迎えた年でもあった。9月に静岡県内の業界団体に公正取引委員会が独占禁止法違反の疑いで立入検査に入った、いわゆる「静岡事件」である。政府の緊縮予算編成が続く中での静岡事件は、建設省が指名競争入札でそれまでの10社指名から20社指名に変えることで、大手から中小企業までダンピング(過度な安値受注)問題を深刻化させるなど、混乱に拍車をかけた一大出来事だった。画像は1982年の本紙紙面。

◇独禁法違反業界に衝撃
 静岡事件が当時の建設業界と建設省にとって衝撃的だったのは、刑法の談合罪や特定分野での独禁法違反例はあったものの、この事件が公取委による総合建設業に対する初めての摘発だったからだ。さらに静岡事件を契機に、指名競争入札、予定価格制度といった入札・契約制度の根幹にかかわる問題や歩切りなど、甲乙対等と言いながら実態として甲の乙へのしわ寄せ強制の慣習問題が俎上(そじょう)に載るなど、各方面へ大きな影響を与えた。
 いち早く動いた建設省は81年11月、大臣が中央建設業審議会(中建審)に入札制度合理化の検討を諮問。さらに同省は、82年3月の中建審建議を待たずに同年1月、指名業者数の増加(いわゆる20社指名)などを盛り込んだ「工事請負契約関係業務適正化」の通達に踏み切った。
 従来の10社指名から企業数を倍増させ20社指名に変更させる通達は、農水省や地方公共団体にも拡大し、全国各地の建設業界に激震が走った。ケースによっては他の地域から数合わせで指名したり、企業倍増によって価格競争が激化。指名された企業にとっては入札参加意欲が無くても、応札に必要な経費がかさむなど、建設業界は大混乱に陥った。
 また、指名競争は、一般競争と違って、発注者が指名権を持っていたため、企業が望む案件に指名されなければ応札できないということも想定された。そのため、業界だけでなく建設省も指名辞退様式を作成、指名辞退による不利益がないように対応を進めた。
 ただ「20社指名問題」は短期的に大混乱を招いたことを受け、83(昭和58)年3月の中建審で、その見直しが建議され、建設省は試行からわずか1年後、83年度から20社指名撤回に踏み切った。

◇ガイドラインに一定配慮盛込み 一方、静岡事件そのものへの対応と収束には数年かかった。この事件には与党自由民主党だけでなく野党も大きな関心を寄せた。82年1月から野党が相次ぎ入札・契約制度提言を公表する中、自民党も同年5月に小委員会(通称玉置委員会)を設置し、8月には一般競争入札の不採用と一定範囲の情報交換を通じた営業行為を「調整行為」と位置付け容認することなどを柱にした、「自民党見解」を発表し閣議了解された。
 また、業界団体は独禁法と入札・契約制度との関係整理を含め対外的広報活動を展開したことが、結果的に自民党見解につながり、最終的には84(昭和59)年2月の公取委による「公共工事に係る建設業における事業者団体の諸活動に関する独占禁止法上の指針」(建設業団体用ガイドライン)公表につながった。
この建設業ガイドラインは、94(平成6)年に公取委が見直すまで続く。
 一方、静岡事件を受け混乱した建設業界が、独禁法の適用除外もしくはガイドライン策定を求めるために活動を展開していたことを踏まえ、建設省も83(昭和58)年2月、建設市場競争問題研究会を設置し、公共工事における市場競争のあり方提起をすべく動き始めていた。そもそも静岡事件を発端に提起された問題は、▽発注制度のあり方▽受注者である建設業の市場競争のあり方--という2つの側面があった。
 研究会の議論は2年以上にわたり、結果として目的の1つだった公取委のガイドラインへの反映には間に合わなかった。ただ研究会には設置から2カ月後の4月、建設省の建設業課の新設ポストで初代の建設業構造改善対策官に就任する吉野洋一氏(元建築業協会専務理事)や有賀長郎課長補佐(現日本建設業連合会事務総長)、内田俊一課長補佐(現建設業振興基金理事長)のほか、岩井國臣技術調査室長(元参議院議員)など発注行政担当者も事務局に名を連ね、この成果が86(昭和61)年の「21世紀への建設産業ビジョン」につながった。
 昭和50年代後半の「建設業冬の時代」とは、市場縮小とともに静岡事件によって浮き彫りになった、指名競争のあり方や予定価格制度、歩切り、価格競争激化に伴う収益悪化、中小建設業のあり方といった、今日的課題につながるさまざまな問題を浮き彫りにした時代だったとも言える。

■建設業ガイドラインとJV
 1984年の公取委による建設業ガイドラインは、独禁法違反にならない行為を示したものだった。その1つとして、「入札に参加するための共同企業体として資格申請を行う場合又は発注官公庁が共同企業体の編成を指示した場合、事業者団体の構成事業者の求めに応じ、当該共同企業体の構成員の組み合わせに関する情報を提供すること」が合法的行為として明記された。
 JV組み合わせの情報交換が独禁法違反にならないと明記されたことで、「業界にとってガイドラインは適用除外に次ぐ次善策として評価された。ただガイドラインによってJVが拡大したが、いびつな(配分目的や上請けなど)JVにもつながった」(関係者)。静岡事件は建設業ガイドラインによって収束に向かったが、JV工事はその後バブル期を迎えたこともあり、一般的な施工形態として広がりを見せた。

◆1981年-1990年の動き

1981年(昭和56年)
9月 静岡事件(静岡県内3団体に対し公正取引委員会が独禁法違反容疑で立入検査)。翌年8月公取委が8条違反で3団体に対し排除勧告
11月 鉄骨建設業協会、日本下水道施設業協会が設立
12月 日本土木工業協会の会長、副会長が辞任

1982年(昭和57年)
1月 建設省、指名業者数を20社まで拡大する20社指名と一括下請負など不適切な形態の契約を禁止する「工事請負契約関係業務の適正化」を通達
2月 各野党も公共事業の執行適正化や入札契約制度の考え方を公表
3月 建設省、入札辞退の自由を通達
4月 土工協、石川六郎新体制がスタート
5月 自民党が公共投資推進議員懇談会を設置
7月 83年度予算要求枠の5%削減を閣議決定。初のマイナスシーリング
8月 自由民主党が「建設業等の契約問題について」(自民党見解)公表

1983年(昭和58年)
1月 全建、独禁法改正研究会を設置
自民党が独禁法に関する特別調査会
2月 建設省、市場構造分析や市場競争のあり方を検討する「建設市場競争問題研究会」発足
3月 日本建設業団体連合会、独禁法問題に関する基本的方針
     東京都の入札制度検討委員会が一般競争入札の導入検討を答申
     中央建設業審議会建議を受け、建設省が20社指名撤回と積算基準公表を通達
     土工協、自民独禁調で意見表明
4月 建設省が建設業課に建設業構造改善対策官を設置
     土工協、「建設業に関する独禁政策について」(土工協見解)公表
   日建経が「独禁法と指名入札制度」
7月 日建連 独禁法の改正に関して経団連に要請
   建設省、民間活力検討委員会を設置
8月 地方公共工事契約業務連絡協議会(地方公契連)が関東地区を皮切りに順次発足

1984年(昭和59年)
2月  公取委が建設業団体用ガイドライン
10月 建設省が建設産業ビジョン研究会

1985年(昭和60年)
4月 建設省、ダンピングの自粛徹底について建設業7団体に要請
7月 自民、公共事業への民活導入を党決定(東京湾横断道路、明石海峡大橋、首都圏中央連絡道路を最重点に)
   国鉄の再建管理委員会が国鉄の分割・民営化を答申
9月 プラザ合意(G5で協調介入によるドル高是正)
11月 建設省の建設市場競争問題研究会が「公共工事における市場競争のあり方」公表
12月 土工協がダンピング防止を検討

1986年(昭和61年)
2月 建設省の建設産業ビジョン研究会が「21世紀への建設産業ビジョン報告書」
3月 米国政府が日米貿易委員会で関西国際空港建設で国際入札実施を要求
   建設市場開放問題が浮上

1987年(昭和62年)
6月 第4次全国総合開発計画(四全総)閣議決定(多極分散型の国土を形成する交流ネットワーク構想)
     建設省、高規格幹線道路網を決定
9月 米国のベクテル社東京支社に建設業許可(外国企業参入第1号)
11月 日米建設交渉、関空入札手続きで合意。米国は他の大型公共事業への参入要求
12月 米国議会、公共事業で日本企業排除条項を包括歳出法案に組み込むことを決定

1988年(昭和63年)
5月 外国企業の建設市場への参入問題で日米合意
6月 公取委、米軍横須賀基地工事をめぐる談合疑惑で独禁法を適用

1989年(平成元年)
9月 日米構造問題協議
11月 米国通商代表部が対日建設市場に関する301条調査の結果公表

1990年(平成2年)
3月 地価高騰防止へ金融機関の不動産業向け融資に総量規制。(平成3年末で解除)
5月 第1回日米建設合意レビュー
12月 建設業許可業者数が5年連続減で50万社台に
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