2015/12/05

【シリーズ戦後70年】彰往考来・高度経済成長の時代 超高層ビルと道路整備


 終戦から10年後の1955(昭和30)年、国際収支は黒字に転じ工業生産と実質国民総生産は戦前のピークを上回り、「戦後経済最良の年」(56年版経済白書)と言われ、白書に盛り込まれた「もはや戦後ではない」は流行語になった。これが、その後の比較的長期の好況局面と短期の不況局面を合わせた、「高度経済成長」の始まりとなった。56年から73(昭和48)年までの平均経済成長率9.1%の高成長による拡大経済基調を背景に、建設産業規模も拡大、建設業の上場も相次いだ。建設産業は73年の第1次オイルショックの混乱をくぐり抜け、バブル期まで市場をさらに伸張させることになった。

 日本経済が高度成長を実現できたのは、工業生産力の飛躍的拡大があったからだ。この拡大を担ったのが、太平洋ベルト地帯に代表される、4大既成工業地帯を中心にした急速な発展だった。急速な発展は、用地や用水不足、交通渋滞、住宅難など都市の過密化を招き、こうした問題を解決するために、さまざまな制度、規制強化と緩和が行われ、その結果、インフラ需要拡大という形で建設産業界に市場規模拡大をもたらした。
 その1つが、50(昭和25)年に制定された建築基準法の63(昭和38)年改正だ。建基法の前身は24(大正13)年の市街地建築物法で、剛構造建築を前提にしていたため31m以内の高さ制限があった。
 しかし戦後、欧米並みの都市近代化へ向け、施工技術や解析技術の進歩や柔構造による超高層ビル建設への研究が進んだことから、63年改正で高さ制限を撤廃し容積率の規制に変わった。この高さ制限撤廃は、設計・施工や材料などの変革を促し、64(昭和39)年のホテルニューオータニ(17階建て)、68(昭和43)年の霞が関ビル(36階建て)が誕生するなど、ホテルやオフィスビルを中心に超高層ビル時代スタートのきっかけとなった。
 高度経済成長を支えた代表的インフラの1つとして、道路がある。戦後の道路整備拡大が実現できた大きな要因は、利用者に整備負担増を求める「道路特定財源制度」の確立と、整備目標に具体事業名と予定事業費を盛り込んだ5カ年計画だ。特に、自動車保有台数が65(昭和40)年の630万台から2年後の67年には1000万台を突破するなど、本格的なモータリゼーション(自動車交通)時代を迎え、整備すべき対象と財源は拡大の一途をたどった。

◆整備拡大支えた道路特定財源
 道路整備のもう一つの転機は、料金収入を整備に充てる有料道路制度が56(昭和31)年の日本道路公団設立とその後の首都高速道路公団、阪神高速道路公団発足による、高速道路と都市高速道路の整備網につながったことだ。
 このほか64(昭和39)年10月の東京五輪開幕に間に合わせるように、東海道新幹線が開通。鉄道も高速交通時代に入った。
 また、国民所得倍増計画(60年策定)でも重要課題5項目の筆頭に社会資本整備の拡充が盛り込まれ、住宅、治水などさままざまな分野で5カ年計画が策定され整備が進んだ。
 その結果、建設業は一時的な停滞はあったものの、戦後の戦災復興から大型台風による災害復旧、朝鮮戦争特需、佐久間ダムなど大型電源開発、製造業の設備投資、東海道新幹線、名神高速道路、東名高速道路、東京五輪整備、霞が関ビルなど超高層ビル需要まで一貫して需要は拡大し続けた。

◆参入抑制視野に登録から許可へ
 そのため71(昭和46)年度の名目建設投資額は16兆6768億円と、61(昭和36)年度からの10年間で5倍、この間の名目の年平均成長率も17.5%と世界でも例を見ない驚異的な伸びを見せ、建設投資額はGNP(国民総生産)の15.1%まで拡大した。
 市場の急拡大は企業数の拡大と品質確保への懸念もあり建設省は71年、建設業の参入抑制も視野に登録制から許可制へ移行する、建設業法の改正(72年4月施行)に踏み切った。業種別・特定建設業の許可制移行や新たに下請負人保護規定を盛り込んだ大改正だった。
 一方、高度経済成長は農村の遊休労働力や失業者などを調整弁として労働需給のバランスを取り、確固たる労働対策を持たない建設業界に労働力不足を招いた。そのため、設立間もない日本建設業団体連合会(日建連)は70(昭和45)年9月、「労働力対策基本計画」を公表する。いわゆる「労働力プール化構想」と呼ばれるものだったが、「労働力の大手独占につながる」などの反対意見や労働組合アレルギーなどで実現はできなかった。ただ、業界が本腰を入れて建設労働力対策に取り組んだことは、その後の雇用近代化や労働福祉、教育訓練対策など具体的活動につながり、最終的には2014年の担い手3法施行につながっていく。
 しかし急速に進んださまざまな社会資本整備を背景にした高度経済成長は、73(昭和48)年に第4次中東戦争勃発を契機にした原油値上げのよる世界的混乱、いわゆる第1次オイルショックによって幕を閉じた。
 オイルショックは、インフレ抑制として政府が選択した総需要抑制に伴う建設市場減少と資機材の高騰、建設業振興基金の創設、海外受注急増などにつながっただけではなく、JV(共同企業体)の本来目的を工事の細分化による工事配分へと変質させる中でJV拡大も招いた。
 日本経済がオイルショックを契機に高度成長期から、安定成長期へ移行する中、建設産業界は、市場が低迷する「建設業冬の時代」からバブル期までの間にも、さまざまな試練を迎えることになる。
 次回は、12月4日付けに「入札契約(上)」と題し、「建設業冬の時代」からバブル期までのさまざまな試練に対応する、建設省と建設業界の動きを追います。


経済成長の推移(実質GDPの対前年度増減率)。年度ベース、93SNA連鎖方式推計。平均は各年度数値の単純平均。1980年度以前は「2020年版国民経済計算年報(63SNAベース)、1981-94年度は年報(2009年度確報)による。それ以降は15年7-9月期第一次速報値(15年11月16日公表)*資料:内閣府SNAサイト
■オイルショック契機に2団体設立■
 1973(昭和48)年10月の原油価格大幅値上げ、いわゆる第1次オイルショックは、物価の急激な上昇を招いた。そのためインフレ抑制策として政府は総需要抑制を行った結果、事業量は低迷する中、調達金利高だけは続き、特に中小建設業の倒産急増と資金繰り悪化が大きな問題となった。
 そのため中小建設業は共同購買など企業防衛策のため協同組合の連合化を目指し、75年7月に全国建設業協同組合連合会が設立された。また建設省も中小建設業の近代化施策具体化のため、「建設業振興基金」を国と業界が出資し同月に発足。オイルショックを契機に中小企業近代化を目的に創設された2つの団体は、その後、建設業界が直面するさまざまな課題への対応・支援の活動範囲を広げることになる。

■海外受注が飛躍的に拡大■
 73年の第1次オイルショックは、建設業の海外受注額を飛躍的に拡大させた。海外建設協会調査によれば、72年度の海外工事受注高533億6100万円から、翌73年度には1707億3000万円と3倍以上に拡大、75年度には3592億1500万円と3000億円台を突破した。72年度から3年間で7倍近くまで拡大したことになる。
 その後も海外受注は、国内建設需要低迷のカバー役として長らく位置付けられ、83年度には初めて1兆円を突破した。現在、海外展開を行う建設業各社は、海外を明確に事業の柱と位置付け海外受注割合を高める傾向にある。


◆1961年-1980年の動き


1961年(昭和36年)
4月 建設コンサルタンツ協会設立
5月 建設業法一部改正(総合工事業及び専門工事業者制度の新設と経営事項審査制度創設)
   この年の経済成長率は実質13.3%、名目20.7%に

1962年(昭和37年)
5月 阪神高速道路公団が発足
7月 日本建築学会が建築高層化で懇談会
9月 全国建築士事務所連合会(日本建築士事務所協会連合会の前身)設立
10月 全国総合開発計画(全総)閣議決定

1963年(昭和38年)
8月 「ホテル・ニューオータニ」日本最初の超高層ビルの建築許可
9月 日本建築学会が「高層建築技術指針」公表
11月 建設省が「国土建設の基本構想」

1964年(昭和39年)
1月 改正建築基準法が施行(高さ制限撤廃、容積地区制度導入)
2月 日本鉄道建設公団が発足
4月 全国中小建設業協会が設立
10月 東海道新幹線開通
   東京オリンピック開幕
   建設業退職金共済組合設立
12月 全国建設専門工事業団体連合会(建専連の前身)設立

1965年(昭和40年)

3月 建設省、直轄の資材支給方式廃止
4月 鉄道建設業協会が設立
12月 建設省、ダンピング防止で通達

1966年(昭和41年)
8月 建設省が「国土建設の長期構想」公表(昭和60年度における地域の姿と所管行政の方向示す)
   いざなぎ景気(昭和40年下期~45年下期)により景気上昇
9月 東名高速道路静岡工区を受注した米国企業が工事を放棄、債権・債務を佐藤工業に譲渡し撤退

1967年(昭和42年)

7月 建設省、土木請負工事工事費積算要領及び土木請負工事積算基準を制定
11月 日本建設業団体連合会設立
   建設業福祉共済団設立

1968年(昭和43年)
4月 霞が関ビル(地上36階建て)竣工
   国民総生産(GNP)が米国に次いで世界第2位に

1971年(昭和46年)
4月 建設業法の一部改正(建設業の許可制度創設や契約適正化、下請人保護など。登録制から許可制へ)

1972年(昭和47年)

8月 日本列島改造を掲げた田中内閣の7月誕生を受け、首相諮問機関として日本列島改造問題懇談会が発足

1973年(昭和48年)
10月 ペルシャ湾岸6カ国が石油公示価格の引き上げ宣言(第1次オイルショック)
11月 総需要抑制策で本四連絡橋など大規模事業凍結
   建設業界、建設資材や賃金・物価の高騰、総需要抑制などオイルショックに伴う非常事態に直面

1974年(昭和49年)

1月 建設省、労務賃金も対象にするスイド条項適用基準の大幅緩和で通達
4月 東京都内の繁華街で建設業の非常事態を訴えるアドバルーン
6月 日本ダム協会設立

1975年(昭和50年)
7月 建設業振興基金設立
   全国建設業協同組合連合会設立
12月 日本建設業経営協会設立

1980年(昭和55年)
4月 昭和55年度の建設投資が初の50兆円台に

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