2012/02/29

建設通信新聞のオピニオン欄“建設論評” 『設計者という主体』

 時代の持つ感覚が、社会全体のトレンドを自動的に受け入れることに無防備になることは人間の常なのか。日本人が、とりわけその傾向を強く持っているのか。今日の政財界ばかりではなく、建築界も、そのような傾向は尽きない。その多くは、これまた同様に海外からの輸入によるトレンドの受容である。そもそも建築家の職能法に始まり、建築士法の確立から職能団体の意義、そして常に変遷しつつある建築に対する職能が定義づけられている根拠となる建築家の役割と責務の相関である。

 この関係は常に時代とともに変化している事実を認めなければならないが、その多くは海外からの制度や仕組みの導入が先行し、国内の実情や歴史的背景が無視される。確かに日本の場合は、そのような形式の導入が先行することなくして、時代の変化や制度改革に成功した事例が少ないだけに、致し方がないということになるのか。ことごとく海外の事例に翻弄(ほんろう)されてきた感がある。
 最近では、それこそ海外から導入されたPFI、DB(デザイン・ビルド)などの建築の発注形式にまつわる問題がさまざまな問題を引き起こし始めている。その最大の原因は、建築家の主体性の欠如による問題である。むろんそこには建築家の能力の問題もあるが、問題なのはその「制度の曖昧(あいまい)さ」と「建築家への信頼度」が、その連携(明確な関連付け)を持っていないことがすべての原因である。
 とりわけ、制度としての建築家の存在が希薄になり始めている元凶には歯止めをかけなければ、経済原理主義の餌食になっていくことは間違いない。PFIによるSPC(特別目的会社)代表企業の目的は、親企業への最大値の経済的利益の誘導が求められているわけで、そこに働く力学的課題は言うまでもないことだ。

◇建築家の小さな発言力

 そこに参加している建築家はいかにも小さな発言力しか持たされてはいない。なぜならば、SPCの代表企業、大株主(出資者)の主たる企業は、ファイナンス系の企業か運営管理会社かゼネコンであるからである。仮に設計図書の未整備や落ち度があれば、たちまち設計者の責任が問われ、代表企業は金銭の過不足に言及することになる。
 このような事態を引き起こさせないためには、完璧な設計図書と積算書をつくらねばならない。しかしながら、建築の設計にかけられる人件費は限られている。なぜならば、PFIは所詮(しょせん)金銭による入札が前提になっているからである。むろん建前では、総合評価という入札金額だけではない内容にはなっているが、いかにコストが安いかは決定的な要素であることは間違いないことだからである。
 DBも同じような状況にある。設計施工一貫、または一括とも言われているが、その差は明確ではない。これも設計者の意向を十分に反映するということであっても、最後はPFIと同様な状況の中で、建築家は踊らされるのである。どれも金儲けのためにつくられた事業という発想から逃れることができにくくなっているのである。
 一個の建築家を守るために制度があることはないが、制度によって建築家を守らなければ、小さな建築家の存在はないも同然である。それは才能や能力の問題ではない。才能や能力は制度に守られて、つくられるのであるという仮説を信じたい。信頼もそこから始まるのである。そうでなければ、資本力のない小さな存在の建築家は、主体性を持って行動することはできないばかりか、建築という極めて社会的にも大きな存在をまとめ上げることなどできないのである。この論理の逆転がないことを願っている。(界)


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