シドニーのオペラハウス(Photo: Thomas Schoch) |
案内してくれたシドニー市の担当者は、痩せて背が高く細面の女性だった。彼女はオペラハウスが完成するまでの経緯を、静かに語り始めた。
国際設計コンペで、デンマークの建築家の設計案が選ばれた。前例のないデザインであり、構造的強度の検証、施工技術の研究、部材資材の開発などすべてが未知への挑戦だった。サウスウェールズ州政府と建築家の意見が対立し、建築家は設計監理者を辞任してしまった。予算も工期も大幅に超過し、州政府は資金確保に苦慮した。
淡々としていた彼女の語り口が、しだいに力強くなった。そして、眼鏡の奥の瞳を輝かせ、思いのたけを吐き出すように熱っぽい口調で語った。
「どんな苦難に直面してもシドニー市民は、オペラハウスの建設を決して諦めなかったのです。市民の熱意と善意がオペラハウスを完成させました。だから市民の誇りであり宝物なのです」
シドニー湾の遊覧船から見るオペラハウスは、海の上に浮かぶ帆船の帆のようにも、貝殻を重ねたようにも見えた。間近に立って見ると、貝殻の先端の鋭角的なラインが、頭上に迫ってくる威圧感があった。
再びシドニーオペラハウスを見たのは、97年6月だった。オペラハウスはその居ずまいを大きく変貌させていた。19年前よりはるかに美しく堂々として、自信に満ちた存在感を放っていたけれど、威圧感は消えて温もりのある優しさを漂わせていた。
オペラハウスは明らかに息づいていた。役を演じる人、歌を歌う人、楽器を演奏する人、それを観て聴きに来る人。そのおびただしい人たちの情熱や感動が、オペラハウスに生命を吹き込んだのだろうか。ホールに響く歓声や拍手が、生命を育んできたのだろうか。
人間と建築物が心を通わせていた。シドニー市の女性担当者が言った「市民の宝物」の言葉に、オペラハウスが応えていたのだった。
東京オペラシティが完成して間もないころヨーロッパを訪れた際、「東京のオペラハウスは、日本の建築家と建設会社でなければ造れない」と言われた。日本の建築技術が評価されたと思ったら、痛烈な皮肉だった。
「すぐそばを高速道路が走り、真下を地下鉄が走り、騒音と振動が絶えない悪条件を克服できたのは日本人だからだ。われわれにはできない。あの場所にオペラハウスをつくることを、市民が許さないからだ」
日本人は、完成した建築物に関心を寄せても、計画や設計には関心が薄い。多くの日本人が、新国立競技場の設計案が発表されるまで、国際設計コンペが実施されていたことを知らずにいたと思う。でもこれは市民の怠慢のせいだろうか。熱意や善意を込めたくても市民は蚊帳の外である。ところで新国立競技場の議論の本質は、予算と規模の“大小論争"なのか? (連)
建設通信新聞(見本紙をお送りします!)
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