林昌二氏が亡くなられた。戦後日本の建築をリードして来た、もっとも実力のある建築家のひとりが亡くなられたことの喪失感に茫然とする。氏は20歳以上年下のわたくしにとって、学生時代から、時代の指標を示してくれる建築家だった。1955年の掛川市庁舎、62年の銀座の三愛ドリームセンター、66年のパレスサイドビル、71年のポーラ五反田ビルや日本IBM本社ビルなどは、戦後の日本が高度経済成長を遂げてゆく軌跡そのものを示す建築群であった。とりわけパレスサイドビルは建築の各部分が明快に組み合わされた構成をもち、部分と全体の関係に間然(かんぜん)するところがなかった。
わが国を代表する日建設計の「顔」として、林氏は個性的な存在感を漂わせる建築家であった。建築における(あるいは社会全体における)組織と個人の関係を考えるとき、林昌二氏の生き方はひとつの理想とも映った。ちょうどパレスサイドビルのように、個人である林氏は、組織人として、全体である日建設計とのあいだに間然するところのない関係を示しつづけた。
航空機設計の夢を抱きつづけていたにも拘わらず、それが敗戦によって一挙に崩れ去ったために、図らずも建築を選んだという意識を後々までも語りつづけた林氏にとって建築が航空機のような極限設計に近づくことが一つの夢だった。これは同じくハイテクの建築を追求したノーマン・フォスターの作品と意識に共通するところがあった。しかしながらフリー・アーキテクトをもって建築家の理想型とする西欧的伝統のなかで、組織事務所に身を置く林氏は、ある種の屈折を持ち続けていたように見えた。75年に書かれた「その社会が建築を創る」という文章は、眼高手低の批評家たちに向かって、「建築家はそのような優雅さを許されない」と述べて、建築家が現実そのものを相手にしなければならないことを訴えた。けれどもそこには現実追随の、苦い思いもあったに違いない。自己の文章をまとめた著作を、毒の字だけを赤く印刷した『林昌二建築毒本』(2004年)と名づけ、そこに自分の頭蓋骨のCTスキャンの画像を配するという徹底した韜晦(とうかい)ぶりは、2001年に最愛のパートナーであり同士であった建築家林雅子氏を失い、また、日建設計という組織を卒業した自己の、解毒作業だったのかもしれない。亡き愛妻の作品集『建築家林雅子』(2002年)の跋文(ばつぶん)に「現在主義」が雅子風だと記した昌二氏は、そこには価値観の転倒を経験した世代の無念と意地が込められているという。そしてそれは昌二風でもあった。
自己を相対化して見つめることのできる近代精神をもった知的建築家、林昌二氏の逝去を心から悼みたい。
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