復活のキーとなった5号キルン |
小池工場長 |
地震発生時、車で外出していた小池氏はすぐに工場に引き返したが、津波に遭遇。運転者がとっさの機転で渋滞を切り抜けて高台にすべり込み、九死に一生を得た。高台から工場の水蒸気爆発を目撃し、「映画の戦場の1コマのようだった」という。
翌日、がれきの山を乗り越えてようやく工場に帰還。高所に位置する5号焼成炉の管理室には従業員と近在の住民約100人が避難しており、ほぼ1週間に及ぶサバイバル生活を強いられた。
並行して6日目からは従業員で班を編成し、組織的な復旧作業に取り組み始めた。こうした中、大船渡市の各部署から廃棄物処理の要請が相次いだが、工場の被害は甚大だった。場内にがれきが流入し、原燃料には海水が浸水。製品は固結、地下施設には汚泥が流入し、電気・機械設備も停止。要請に応じられる状況ではなかった。
◇送電再開!
その中で、受け入れを前向きに考えたのが小池氏だった。「5号焼成炉を使えば焼却処理はできないはずがない」。要請を整理するため小池氏が全体協議の場の設置を提案。これを受けて3月22日にがれき焼却に関する打ち合わせの初会合が開かれた。
問題は電力だった。東北電力からの供給はストップしている。「各家庭への供給も止まっている中、1民間企業のためだけに高圧ケーブルの敷設や鉄塔修理などできるはずがない」。ここで動いたのが大船渡市だ。県とともに、がれきの早期処理のため電力会社に工場への送電を強く要請。その結果、5月9日に高圧電力の供給が再開された。
「これが大きなポイントとなった」。受電設備の復旧を急ぎ、5月17日に場内のがれきで試験焼却を実施。改良を続け6月22日に本格処理を開始した。その後、災害廃棄物のセメント資源化に取り組み、ことし3月時点で同市における災害廃棄物処理率は県内の被災自治体で最も早い63%に達した。
◇社長の復旧宣言
一方で、トップの意志も現地従業員の士気を高めた。震災後、工場内では“復旧させよう"と声を掛け合っていたが、一方で工場閉鎖を懸念する雰囲気もあった。そうした中、震災から間もない4月1日に徳植桂治社長(当時)が工場を訪れ、従業員を前に復旧宣言したことにより「何とかしようという気持ちが一層強まった」。
震災の試練を乗り越え従業員の絆はより一層強まり、その結束力で現在は震災前と同じ焼成炉2基体制の下、セメント生産、廃棄物処理とも順調に推移している。
就任初年度の稼働目標は「県との約束である災害廃棄物処理54万tの必達と、当工場に要求されているセメント生産量190万tの必達プラスアルファ」。特にセメントを原料とするコンクリートの不足が叫ばれているだけに「三陸沿岸地域の復興資材であるセメントを計画どおり供給していくことが社会的に与えられた使命だ」と力を込める。
がれき処理、セメント供給という、ともに被災地の復興に欠かせない重要な役割を担い、2つの焼成炉はきょうもフル稼働を続けている。
建設通信新聞(見本紙をお送りします!)2013年5月28日
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