建築史の巨星が逝ってしまった。西洋建築史の第一人者で、建築評論や近代建築の保存で活躍した建築史家で東大名誉教授、青山学院大学教授の鈴木博之(すずき・ひろゆき)氏が3日、肺炎のため死去した。68歳の早過ぎる逝去だった。
巨星と言うと本人は嫌がるに違いない。それほどいつも気さくで飄々(ひょうひょう)とし、謙虚な人だった。
1990年代終わりから約3年、建築の「現場」と「素材」を現地で論じるという「20世紀:日本の建築」プロジェクトが、日刊建設通信新聞社と鈴木さんとの実質的な「出会い」だった。そうそうたるアーキテクトを迎えて、コンクリートであれば山口県宇部市など、素材の産地を探して全国でシンポジウムを展開するプロジェクトだった。鈴木さんがプロジェクトの代表を務めた。「論理は場所に宿る」との実感を得る体験だったと後述している。
その後、2011年開催のUIA(国際建築家連合)大会の周知活動の一環として、建築家の槇文彦氏、故黒川紀章氏らを講師に招いて06年から開いた連続公開シンポジウムでは、全15回のうち8回の対談・進行役をお願いした。
この時は進行として聞き役に徹しておられ、自身の意見などを述べることは少なかった。そのためか、穏やかで自己主張をあまりされない人という印象が強かった。しかし、東大の最終講義で見た鈴木さんは、別人のようで、建築史の大家である凄みと迫力が立ち見の講堂の隅々まで伝わってくるようだった。
今、シリーズで続けている企画記事「けんちくのチカラ」では、古い建物を扱うケースも多く、ふさわしい研究者を教えていただくため何度か鈴木さんにお聞きした。女優のジュディ・オングさんが旧帝国ホテル本館の印象を語ってもらった時には、ライト館が移設された明治村の館長でもあった鈴木さんに解説をお願いした。
しばらくぶりにあるパーティーでお会いした時に、かなり痩せられていたので心配していたが、その後いろいろな場所で元気な姿を拝見していたので体調もよくなられたのだと思っていた。
2020年のオリンピック・パラリンピックの東京開催が決まる前の昨年秋、国立競技場のデザイン案を担当するザッハ・ハディド氏が来日してのパーティー会場では、疲れた様子だったので話しかけると「気をつけて良くなるものならいいのだけど…」と言われていたのが気になっていた。
最後にお目にかかったのが昨年11月、建築設備技術者協会主催の建築設備士の日の記念講演会。記念講演会では、スライドを使って近代建築史を分かりやすく振り返り、日本の神社仏閣の伝統的な保存・再生の手法を解説するなど、すばらしい講演だった。会場は立ち見が出るほどの満席だった。
講演直前、ステージ袖で「よろしくお願いします」とお声をかけると「はい」とニコニコされていた。
ありがとうございました。
合掌。 (津川学)
◆藤森照信氏/議論の強い人、誰にも負けない人
病気のことは聞いていたが、元気に仕事をしていたので、非常に驚いている。僕が24歳の時から43年間、ずっと建築史を一緒にやってきた仲間だった。ものすごく頭が良くて、なんでもちゃんと理解する人だった。鈴木さんが見ていると思うと、仕事の手を抜くこともできなかった。
とにかく議論の強い人で、誰と議論をしても負けない人だった。一度、なぜ議論がそれだけ強いのか聞いてみると「相手の話の内容よりも、話の筋立てや構造を聞いている。構造さえ把握できれば、どんな議論もひっくり返すことができる」と豪語していた。
建築史家としては、西洋建築や世界の建築に詳しい印象をもたれているが、本当は庭や商店街といったものを愛する人でもあった。特に荒川区の三ノ輪商店街のような活気を気に入っていた。
建築保存についての理論がなかった時代から建築の保存に興味を持って、若い頃から新しい都市のためには古い街が必要なんだと言っていた。つい最近も国立近現代建築資料館の創立や明治村館長の就任など、組織を動かした近代建築の保存に力を入れていて、建築保存の大元締めになっていた。やりたい仕事をずっとやってきた人だったと思う。ただ、これからさらに近代建築の保存に力を入れようとしていたので、非常に残念だ。
◆石山修武氏/建築史家最大級の成果を民衆に
ともあれ、鈴木博之は建築史家として、日本近代において最大級の成果をアカデミーの内のみならず、広く社会一般に、つまりは民衆に対しても成し得たのである。
晩年の鈴木博之は若いころのケンカ早く、しかも常勝であった角も消えなずみ、驚くべき成熟ぶりを示すにいたった。「病のお陰様」であったのか、その成熟ぶりはまさに彼の著作の一つにあるようにジェントルマンの文化の成果のごとくであった。よく他人の話に耳を傾け、適切なアドバイスを周りに与えたのである。
日本人には、その知識層には稀(まれ)な成熟ぶりであったと言えよう。
人間は、その人間の才質を失って、初めてその大きさを知る愚かさを繰り返すものである。これからしばらく、日本の建築界は、特にその文化的世界に於いては鈴木博之を失い、骨格のない液状化現象世界になるだろうことは目に見えている。彼に代わり得る人材資質器量は当分の間得ることはできまい。この空白は巨大である。
◆難波和彦氏/歴史と批評を結び論じられる唯一の人
自分の1年先輩で、学生時代から建築史一筋、生え抜きのエリートだった。他の大学を経ずに東京大学の教授にも就任し、僕たちにとっては恐れ多い人だった。議論にも強い人で、ある有名建築家との対談で相手の発言にことごとく反論し、論破していたのが印象的だった。
また、一般的に建築史家はアカデミックな研究をする人が多い中で、建築批評にも携わっていた。歴史と批評を結びつけてしっかりと論じることのできる人はほかにいないのではないか。
仕事においては、安藤忠雄先生を東大に招いたことで、建築史の中に1つのターニングポイントをつくったと思う。ただ大学とは無縁の安藤先生を東大に招いたために、敵の多い人でもあった。最近も、新国立競技場の国際コンペに審査員としてかかわった結果、多くの建築家と対立することになってしまった。しかし、他人からどう思われようと、自分の尺度を持っていつも堂々とした人だった。
建設通信新聞(見本紙をお送りします!)
巨星と言うと本人は嫌がるに違いない。それほどいつも気さくで飄々(ひょうひょう)とし、謙虚な人だった。
1990年代終わりから約3年、建築の「現場」と「素材」を現地で論じるという「20世紀:日本の建築」プロジェクトが、日刊建設通信新聞社と鈴木さんとの実質的な「出会い」だった。そうそうたるアーキテクトを迎えて、コンクリートであれば山口県宇部市など、素材の産地を探して全国でシンポジウムを展開するプロジェクトだった。鈴木さんがプロジェクトの代表を務めた。「論理は場所に宿る」との実感を得る体験だったと後述している。
その後、2011年開催のUIA(国際建築家連合)大会の周知活動の一環として、建築家の槇文彦氏、故黒川紀章氏らを講師に招いて06年から開いた連続公開シンポジウムでは、全15回のうち8回の対談・進行役をお願いした。
この時は進行として聞き役に徹しておられ、自身の意見などを述べることは少なかった。そのためか、穏やかで自己主張をあまりされない人という印象が強かった。しかし、東大の最終講義で見た鈴木さんは、別人のようで、建築史の大家である凄みと迫力が立ち見の講堂の隅々まで伝わってくるようだった。
今、シリーズで続けている企画記事「けんちくのチカラ」では、古い建物を扱うケースも多く、ふさわしい研究者を教えていただくため何度か鈴木さんにお聞きした。女優のジュディ・オングさんが旧帝国ホテル本館の印象を語ってもらった時には、ライト館が移設された明治村の館長でもあった鈴木さんに解説をお願いした。
しばらくぶりにあるパーティーでお会いした時に、かなり痩せられていたので心配していたが、その後いろいろな場所で元気な姿を拝見していたので体調もよくなられたのだと思っていた。
2020年のオリンピック・パラリンピックの東京開催が決まる前の昨年秋、国立競技場のデザイン案を担当するザッハ・ハディド氏が来日してのパーティー会場では、疲れた様子だったので話しかけると「気をつけて良くなるものならいいのだけど…」と言われていたのが気になっていた。
最後にお目にかかったのが昨年11月、建築設備技術者協会主催の建築設備士の日の記念講演会。記念講演会では、スライドを使って近代建築史を分かりやすく振り返り、日本の神社仏閣の伝統的な保存・再生の手法を解説するなど、すばらしい講演だった。会場は立ち見が出るほどの満席だった。
講演直前、ステージ袖で「よろしくお願いします」とお声をかけると「はい」とニコニコされていた。
ありがとうございました。
合掌。 (津川学)
◆藤森照信氏/議論の強い人、誰にも負けない人
病気のことは聞いていたが、元気に仕事をしていたので、非常に驚いている。僕が24歳の時から43年間、ずっと建築史を一緒にやってきた仲間だった。ものすごく頭が良くて、なんでもちゃんと理解する人だった。鈴木さんが見ていると思うと、仕事の手を抜くこともできなかった。
とにかく議論の強い人で、誰と議論をしても負けない人だった。一度、なぜ議論がそれだけ強いのか聞いてみると「相手の話の内容よりも、話の筋立てや構造を聞いている。構造さえ把握できれば、どんな議論もひっくり返すことができる」と豪語していた。
建築史家としては、西洋建築や世界の建築に詳しい印象をもたれているが、本当は庭や商店街といったものを愛する人でもあった。特に荒川区の三ノ輪商店街のような活気を気に入っていた。
建築保存についての理論がなかった時代から建築の保存に興味を持って、若い頃から新しい都市のためには古い街が必要なんだと言っていた。つい最近も国立近現代建築資料館の創立や明治村館長の就任など、組織を動かした近代建築の保存に力を入れていて、建築保存の大元締めになっていた。やりたい仕事をずっとやってきた人だったと思う。ただ、これからさらに近代建築の保存に力を入れようとしていたので、非常に残念だ。
◆石山修武氏/建築史家最大級の成果を民衆に
ともあれ、鈴木博之は建築史家として、日本近代において最大級の成果をアカデミーの内のみならず、広く社会一般に、つまりは民衆に対しても成し得たのである。
晩年の鈴木博之は若いころのケンカ早く、しかも常勝であった角も消えなずみ、驚くべき成熟ぶりを示すにいたった。「病のお陰様」であったのか、その成熟ぶりはまさに彼の著作の一つにあるようにジェントルマンの文化の成果のごとくであった。よく他人の話に耳を傾け、適切なアドバイスを周りに与えたのである。
日本人には、その知識層には稀(まれ)な成熟ぶりであったと言えよう。
人間は、その人間の才質を失って、初めてその大きさを知る愚かさを繰り返すものである。これからしばらく、日本の建築界は、特にその文化的世界に於いては鈴木博之を失い、骨格のない液状化現象世界になるだろうことは目に見えている。彼に代わり得る人材資質器量は当分の間得ることはできまい。この空白は巨大である。
◆難波和彦氏/歴史と批評を結び論じられる唯一の人
自分の1年先輩で、学生時代から建築史一筋、生え抜きのエリートだった。他の大学を経ずに東京大学の教授にも就任し、僕たちにとっては恐れ多い人だった。議論にも強い人で、ある有名建築家との対談で相手の発言にことごとく反論し、論破していたのが印象的だった。
また、一般的に建築史家はアカデミックな研究をする人が多い中で、建築批評にも携わっていた。歴史と批評を結びつけてしっかりと論じることのできる人はほかにいないのではないか。
仕事においては、安藤忠雄先生を東大に招いたことで、建築史の中に1つのターニングポイントをつくったと思う。ただ大学とは無縁の安藤先生を東大に招いたために、敵の多い人でもあった。最近も、新国立競技場の国際コンペに審査員としてかかわった結果、多くの建築家と対立することになってしまった。しかし、他人からどう思われようと、自分の尺度を持っていつも堂々とした人だった。
建設通信新聞(見本紙をお送りします!)
鈴木センセが「気さくで謙虚」、何かの間違いでしょう。鳩山ハウスで賑々しく開かれた鈴木センセの論文学会賞の受賞パーティで、少し年上の同僚建築史家から「性格が悪く、腹黒い。面白いのは学術論文以外の駄文だけ。」と目の前でおちょくられた人ですよ。この同僚の史家は学会の作品賞ももらった人ですが、鈴木センセはこの史家の受賞について「仲間内で賞をまわしてる」と影で悪口を言ってましたが、事情を知ってる人は鈴木センセをおちょくった史家に快哉を送ってました。報道はもっと正確にしてほしい。少なくとも報道内容の裏付けはもっときちんとやってください、ね。
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