2014/05/16

【建設論評】論文審査の虚々実々 審査に投げかけられる疑問符

政府の方針で博士課程の拡充が進められて以来、一部の大学に限られていた課程博士が学位制度改革によって数多くの大学から誕生するようになった。このことは、土木工学や建築学の分野でも例外ではない。学位を得て世に出る人材は、玉石が混在しているというのである。
 思い出すのは、米国勤務中に依頼されて学位論文の審査に協力した時のことである。


 指導教員は、論文のテーマの有用性を問題にして、学生と議論を繰り返した。研究には有用性が不可欠というのである。執筆途上では、文章の一区切りごとに学生自身の考えか既往の研究からの引用かを質して、自身の考えだったら、その根拠考証を求めた。引用の場合は逐一、文献のコピーを提示させ、該当個所を確認させた。文章を厳しくチェックして、徹底的に加除添削の筆が入る。原稿は文字どおり真っ赤になった。
 結論には、論文の目的が反映されるまで、何度も書き直しさせる。完成した論文は、さらに他の教員たちの添削が入った。
 公開の審査席上では、出席者から容赦のない意見や指摘が飛ぶ。審査を受ける学生はそれに応えて反論や説明を試み、全員に説得力を与えることで合格の太鼓判を得る。しくじれば、最初からやり直しである。日本に比べて、米国の博士課程は、はるかに大勢の人材を生み出すが、質も充実しているように見えた。
 わが国でかかわった複数の大学の例を挙げよう。大学や指導教員で違いはあるのだが、論文のテーマは、指導教員の押しつけがほとんどである。テーマの有用性に対する認識も不十分である。
 論文の筋立ては、指導教員の指導に従って構築される。文章のレベルは学生の力量次第である。既往の研究からの引用も、指導教員からの受け売りが主である。引用した既往文献は、引用リストを列挙するだけで、逐一確認することはない。
 具体的な指摘は少ない。添削を施すことも少ない。抽象的に告げられる指摘や感想が指導といえるものである。具体性を欠いた指摘や感想を受けた学生は、困惑しながら手探りで論文をまとめあげる。
 論文の審査は、一応は公開の形式をとるが、実際に外部の人間が参加することはまれである。指導教員が主査を務め、主査が選んだ複数の副査で構成する審査会で論文審査が行われる。副査は、あらかじめ論文に目を通したはずだが、審査会の席上、研究内容に踏み込んだ指摘や質問は少ない。文章の完成度を確かめるために読んだ程度の認識で、立ち入る気持ちがないのか、それとも主査に遠慮しているのかもしれない。仮に意見を表明しても、聞き流される可能性が高い。審査会は、学生に緊張感を与えるが、セレモニーで終わる。限られた例だが、総じて大きな差が存在しているように見える。
 昨今、わが国では、研究の指導や論文の審査の実態に疑問符が投げかけられている。この実態について「わが国の研究成果に対する評価は性善説に基づいているのだ」と有識者たちは言う。だが、受け入れる側、例えば建設会社などでは課程博士を専門性が狭くてツブシがきかないと見なす一方で、その専門性が頼りにならないとする意見もある。
 ことは、研究成果と学位に対する権威と信頼性、そして土木建築を目指す若き人材の将来性にかかわる問題である。(康)
建設通信新聞(見本紙をお送りします!)

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