新造の酒槽の前での鈴木大介専務(左)と荘司兄弟 |
◇支援フェア特需と蚊帳の外
東京農大醸造科学科は、農大120余年の歴史の中で、創設60年の伝統学科である。酒蔵は全国に1300ほど存在するが、そのオーナーの6割はOBである。被災3県には、合わせて109場の清酒醸造場があり、程度の差はあれ86場が被害を受けた。
福島県浪江町の『磐城壽』醸造元、鈴木酒造店の鈴木大介専務と荘司君の兄弟も津波に遭って命はあったが、蔵はなくなった。酒は太平洋の一滴になっていた。高さ5m超の精米機は、今は人工魚礁かも知れない。海の際までが蔵だった。
◇二重災禍に奪われた御神酒
ラベルの図柄は羅針盤だ |
「海に一番近い蔵」がキャッチコピーだった。敷地の端からジャンプすれば防波堤の頂上で漁港が一望できた。「磐城壽」の一升瓶は、浪江町請戸(うけど)港に大漁旗を掲げて帰った漁師が漁協から受け取る勲章であり、出漁の祭事、新造船の進水式の御神酒だった。陽の高いうちからその酒をコップで飲(や)って、日暮れごろに赤ら顔で枕につき、また夜明け前に沖へ出る。そういう屈強な男たちに愛される頑強な酒と聞いていた。
酒質に対する学内評判は、洗練されてなく風味が重いとのことであったが、現地へ行けば氷解した。専務は避難所で漁師たちから再開を期して小銭を握らされたという。ラベルの図柄は羅針盤である。
あの3月11日は、シーズン最後の蒸米の日で、仕込みの終わりを祝う「こしき倒し」といわれる蔵内神事の日であった。御神酒の原料米を蒸した釜とこしきは数時間後、瓶やタンクとともに海底の一部となった。一瞬にして更地になった敷地には、釜場の基礎土台だけが残った。釜が鎮座していたコンクリートの穴は砂で埋まっていた。報道中継は知ってか知らずか、決まってこの深淵からで、防護服の方がラベルのない一升瓶をそっと並べてくれたり、記者が舞台の如く立ってみたり。そのたびに晩酌は塩っぽい味になり鼻をかんだ。
◇山形・長井で酒造り復興への出航
昨年10月末、本学3年生の酒蔵実習先を手配する時期になった。これまでも10年来、「磐城壽」には12月の第2週と3週、選択科目の宿泊実習をお願いしてきた。ところがことしは9月の段階でも、仕込み場所も未確定な状況であった。
今季のお願いは遠慮すべきかと悩んだが、もし後から専務に「何で声を掛けてくれなかったか」と言われることも想像し、思い切って電話した。
先方の「12月中ごろに最初の1本を搾る予定なのでぜひにお願いします」との返事にホッとしたが、「飯と風呂の対応を嫁さんと相談します」と家族経営の蔵ならではの悩みもあったようだ。結局12月、学生2人は譲り受けた隣県山形県長井市の新蔵へ出発した。
その2日後に私が蔵を訪ねると、学生は酒粕満載の一輪車を意気揚々と押し、慎重に駆けていた。酒も歴史も造るのだと、不慣れな大工仕事も嬉々と進めていた。譲り受けた蔵は、もともと地場用銘柄『一生幸福』を製造しており、その銘柄も引き継いで進めるようだ。
浪江の蔵は休造扱い。新蔵との二蔵体制で、いつか絶対戻るとの信念で長井蔵に専念というところである。酒造業は設備に加え酒税法・製造免許の手続きもあり結果的に県外へ出ざるを得なかったため補助金等の点で苦労が多いようであるが、製造技術維持、早期再開のための苦渋の決断を聞いた。
◇地鎮祭には造り手の思いを
仕込み庫内の不ぞろいのタンクは、「壽」流の少量手生産に合わせて入れ替えたもので、OBやその橋渡しによる同業者たちからの寄贈である。酒を搾る酒槽(さかぶね)も新調し、出荷も始まっている。すべてが新酒、新酒しかないのだ。新蔵では7月まで仕込みを続けるというから、この地で初のこしき倒しは7月。新地、新酒での神事の無事を信じたい。
津波を受けど、それを振り返らない航海は、今新しい舟とともに羅針盤を頼りに進む。そしていつか港へ帰るため、浪江の「元気」を次世代につなげるための新たな舟出である。
神事に清酒は欠かせない。地鎮祭、起工式。時にその酒の造り手も思い浮かべてほしい。
(東京農業大学応用生物科学部醸造科学科酒類生産科学研究室准教授 進藤斉 氏)
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とても魅力的な記事でした!!
返信削除また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。