旧清水邸書院 |
◇33年間の眠り
旧清水邸書院は、当時の清水組(現清水建設)副社長宅の離れとして、1910(明治43)年から11年ごろに台東区内に新築され、19(大正8)年に現在の世田谷区瀬田に移築、60年後の79(昭和54)年に解体された。
栂(ツガ)を主要材にした造りで11畳の書院と5畳の次の間からなり、欄間には金箔などの工芸がみられ、確かな技術に裏打ちされた優れた意匠は復元すれば区の登録文化財としての価値を有するものと評価されていた。
その解体部材は区が寄贈を受けて以来、33年以上の長きにわたって倉庫に眠っていた。この間、区も幾度となく復元の検討を試みてきたという。
最大のネックは復元費用の捻出だが、「資金があればすべてが解決するわけではない。どんな場所でも良いというわけにはいかない」と当時教育委員会事務局生涯学習・地域・学校連携課長として計画に携わってきた松下洋章秘書課長は語る。「建設当時も庭園の中に建物があった。こうした和風建築として重要な立地条件に沿う適地にめぐり合わなかった」ことを理由に挙げる。
縁側越しに外を眺められる開放的な造りになっている |
今回、眠っていた部材が日の目を見たのは、区初の本格的な日本庭園を備えた二子玉川公園の整備計画が進む中で、かつての所在地に近いことから、ゆかりのある地での活用が望ましいとして復元構想が浮上したからだ。
同公園の整備計画を担当した関根義和二子玉川施設整備課長(当時)は「多少の時間的なずれはあるものの、公園、文化、社会貢献という3つの需要がうまく合致した」と振り返る。
同公園の整備に向けては、2009年度に住民参加のワークショップを開いた。「高齢者のためのゆったりしたものがほしい」という参加者からの意見をベースに、どういう庭にするか検討を進めた。立地特性上、西洋庭園はなじみにくいことから、日本庭園と方向性は決めたが、当初は訪れた区民が雨宿りできる四阿(あずまや)程度の施設を設ける計画だったという。こうした中で教育委員会サイドでは旧清水邸書院復元に向けた検討を進め、結果として同公園整備に盛り込めないかという考えに達した。
総アカマツ造りの書院 |
復元に当たっては、長期の保存期間中に一部の部材が欠損していたほか、耐震性の確保などといった技術的な課題もあることから、清水建設に協力を要請した。資金の手当ても含めて松下課長は「区として腹を割って話した」結果、同社が地域貢献の一環として、また建築文化の継承という観点から工事費用を含め設計とともに施工も引き受けるという決断を下し、一気に実現へと動き出した。
その後、公園の基本設計を変更、進士五十八東京農大名誉教授を座長とする「(仮称)二子玉川公園日本庭園検討部会」のアドバイスをもとに、張り出しを採用して池の奥行きを見せるなど、池との取り合いには配慮したという。設計段階では、「建物回りの歩行空間の確保や、伝統的な日本庭園に近代の和風建築を織り込む上でのギャップの解消も求められた」(関根課長)。
特に「歴史的名建築の保存という観点から当時の開放的な造りを実現させたいという思いと、耐震性確保をいかに両立させるか」(同)がポイントとなった。当初は難しいとみられた2面開放も耐震壁の工夫や天井裏を活用した耐震補強など同社の高い技術力を生かして実現可能になったという。
内装については、区教育委員会の文化財資料調査員が同社と部材一つひとつに至るまで時代考証を重ね、くぎ一本まで細やかなやりとりを続けた。松下課長は教育委員会の文化財資料調査員とともに部材を確認した際、部材の産地をすべて言い当てる同社の社員を目の当たりにして「ただただ感心した」と今もその驚きを鮮明に話す。
8月に着工した復元工事も順調に進み、現在は基礎工事がほぼ完了した。松下課長は「(資金面、技術面ともに)私たちだけの力ではなし得なかった。清水建設の存在なくしては着工の日は来なかっただろう」と実感を込めて語る。
建設通信新聞 2012年9月14日12面
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