小説家の赤川次郎さんは、海外も含めてとにかく劇場やホールによく足を運ぶ。オペラからクラシック、演劇、歌舞伎、文楽など興味のフィールドも幅が広い。「締め切り真っ最中に1週間、毎日劇場通いということもありましたね」と笑う。しかし、これが次々と瑞々しいエンターテインメントを生み出す原動力なのだろう。もちろん劇場通いから作品の誕生までの道のりは平坦ではなく、もがくような集中力が必要になるはずだ。活字をもって人々に感動を届ける仕事とはそういうものなのだと痛感する。数多い鑑賞経験から選んでくれたのが、オープンからずっと親しんできたサントリーホール。「コンサートホールとして良くできているのはもちろん、管理がすばらしいですね。よく手入れされていることに感心させられます。周辺での食事も楽しめるので、おしゃれをして出かけるホールとして、クラシックのファン層を変えましたよね」
◇劇場通いが発想の原動力に
サントリーホールにはオープンした1986年からよくコンサートを聞きに行く。
「コンサートホールとしてとてもよくできているのはもちろん、管理がいいですね。本当によく手入れされている。行くたびに感心します。サントリーさんのホールへの情熱を感じます」
サントリーホールは東京・赤坂の都心に立地し、音楽を聞くだけでなく周辺での買い物や食事も楽しめる。当時の日本では進取の気風を持つホールとして注目を集めた。幕間にシャンパンなどのアルコールを提供したのも斬新なことだった。
「コンサートが終わった後、ゆっくりと食事を楽しむというところが日本にはなかなかありませんでした。サントリーホールができて、そこに行くことがおしゃれだという感覚が生まれました。クラシックのファン層も変わりましたね」
時間の経過とともに音が良くなったのを実感したのはこのホールが初めてだと言う。
「最初から音はいいのですが、1年ほど経ってさらに良くなったんです。素人が聞いてもわかるくらい変わったと思います。(同じオーケストラで)あれ?この前聞いた時とは違うという感じです。耳につくようなピークの音がなくなって、やわらかくなったと言えばいいのでしょうか。床や内装材に木がふんだんに使われていますので、それに音がなじんでいったのかと思っています」
知り合いの演奏家などからは楽屋の使い勝手の良さも伝わってくる。
「音はしっかりしていても、楽屋がすごく狭かったり、舞台への出入りが危なかったりするホールがありますが、サントリーホールは指揮者の部屋も落ち着いていて、動線もわかりやすく、とてもよくできていると聞きます」
「コンサートホールとしてとてもよくできているのはもちろん、管理がいいですね。本当によく手入れされている。行くたびに感心します。サントリーさんのホールへの情熱を感じます」
サントリーホールは東京・赤坂の都心に立地し、音楽を聞くだけでなく周辺での買い物や食事も楽しめる。当時の日本では進取の気風を持つホールとして注目を集めた。幕間にシャンパンなどのアルコールを提供したのも斬新なことだった。
「コンサートが終わった後、ゆっくりと食事を楽しむというところが日本にはなかなかありませんでした。サントリーホールができて、そこに行くことがおしゃれだという感覚が生まれました。クラシックのファン層も変わりましたね」
時間の経過とともに音が良くなったのを実感したのはこのホールが初めてだと言う。
「最初から音はいいのですが、1年ほど経ってさらに良くなったんです。素人が聞いてもわかるくらい変わったと思います。(同じオーケストラで)あれ?この前聞いた時とは違うという感じです。耳につくようなピークの音がなくなって、やわらかくなったと言えばいいのでしょうか。床や内装材に木がふんだんに使われていますので、それに音がなじんでいったのかと思っています」
知り合いの演奏家などからは楽屋の使い勝手の良さも伝わってくる。
「音はしっかりしていても、楽屋がすごく狭かったり、舞台への出入りが危なかったりするホールがありますが、サントリーホールは指揮者の部屋も落ち着いていて、動線もわかりやすく、とてもよくできていると聞きます」
◇コンサートホールとオペラハウス
アマチュアのオーケストラでヴァイオリンを演奏する娘さんが大学生のころ、サントリーホールで4年間演奏した。年末の学生オーケストラによる「第九」のコンサートに出演、4年生の時にはコンサートマスターを務めた。「娘からも楽屋の使いやすさを聞いていました。素人が4年間もこんな素晴らしいホールで演奏させてもらい、とても思い出深いホールでもあります」
サントリーホールでほかに印象に残っているのは、つい数年前まで続いていた「ホール・オペラ」と10月初めのオープン記念コンサート。
「コンサートホールとオペラハウスは建築構造的にかなり違う造りだと思いますが、サントリーホールはオペラを10年ほど続けてきました。そでや舞台裏などがないところでのオペラですから、工夫が凝らされていました。例えば、『ドン・ジョバンニ』の地獄落ちなどは、ピアノを上下させるエレベーターを使ってました。うまく考えたなと思いました。オープン記念コンサートは、最初のころは海外の著名な人を呼んで開いていました。ロシアのバレエ・ダンサーのマイヤ・プリセツカヤさんが『瀕死の白鳥』を演じた時、音楽担当の有名なチェリストとテンポが合わず、お互い譲らなかったという裏話を聞きました」
海外で最もよく行っているのは「ウィーン国立歌劇場」と「フォルクスオーパー」(ウィーン)。「ウィーンではこうした劇場で何回か年越しをしました。年末の30日に『第九』を聞き、31日に『こうもり』を見るのですが、『第九』は日本向けではないかと思っています。海外のオペラハウスで感心するのは、一番後ろの席でも歌手の表情が見えることですね」
◇中州生まれ
福岡・博多の中洲生まれ。「中洲はいまとは少し違いますが、それでもにぎやかなところでした。父が東映九州支社長でして、家は1階が会社で2階が自宅でした。父は本社から送られてくるフィルムを試写室で回して、キズなどがないかチェックしていました。ぼくはまだ物心つくかつかないかの歳でしたが、試写室で映画を見て遊んでいました。当時東映の2大スターだった市川右太衛門と片岡千恵蔵のチャンバラ映画を毎日見ていました。その後、市内の一軒家に引っ越して7歳の時に東京に移りました。ちょうど『ALWAYS三丁目の夕日』の時代、昭和30年代でしたね」
新しいホールでも動線がわかりにくいなど、音はいいが使いづらいところがあるという。「使う側と見る側の両方の意見を取り入れて設計をしてもらいたいのですが、つくる方は変わったものをつくろうと考える。何か新しいことをやろう、といういまのオペラの演出にも似たようなところがありますね」
これからは赤川さんら団塊の世代の観客が増えてくる。「最近昼間のコンサートがとても多くなっています。これも定年退職した方を対象にした動きです。ぼくのように夜型人間には困るのですが(笑)、高齢化に合わせたホール運営も求められてくるでしょうね」
今後の活動についてはこう話す。
「目の前の締め切りをこなすことで、あまり先のことは考えない性質です。ただ、できるだけ劇場に足を運んでおもしろいものは何でも見ておこうとは思っています」
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