作曲家の平本正宏さんは2013年6月、初めて降り立ったモスクワ市で、伝統ある「モスクワ国際映画祭」の授賞式に臨んだ。審査員特別賞を受賞した『さよなら渓谷』(13年公開、大森立嗣監督)の音楽担当者として、大森監督、主演の真木よう子さん、大西信満さんらとレッドカーペットを歩いた。会場となったのが市の中心部にある劇場「ロシア」。1964年、映画館としてオープンした。全面ガラスのファサードは当時、ロシアでは革新的な建築だった。1753席(現在)もの客席を持つ映画館は、欧州も含めて最大だった。平本さんは「ロシアの歴史を背負ったような巨大で重厚な建築で、国を挙げてのイベント会場として選ばれた空間という印象でした。作品とともに音楽への評価も直接耳にしまして、チャイコフスキーの国ですから、うれしかったです。忘れられない場所です」と話す。
軒が張り出し、全面ガラス張りのファサードが特徴。 ポスターに覆われている部分は全面ガラス |
映画『さよなら渓谷』の音楽は、チェロを主体に作品の重いテーマに寄り添いながら、甘く切ない印象的なメロディーも奏でる。審査員や映画批評家らが作品とともに音楽も高く評価した。
「言うまでもありませんがロシアは音楽やバレエなどの芸術大国で、音楽家にとってはチャイコフスキーという素晴らしい作曲家の生まれた国。東京の小さな空間でつくった音楽がその国で評価されたことは驚きであると同時に、このまま頑張っていけるという自信にもつながりました。授賞式に臨んだあの大きな建物の空間は、そんな喜びとともに強く印象に残っています」
レッドカーペットで、プロデューサーの森重晃さんと |
授賞式に先立ってマスコミ上映会、一般上映会が別の会場であったが、そこも大きな建物だった。
「特に一般上映会のスクリーンは横30m、縦15mくらいはあったのではないでしょうか。こんな大きなスクリーンは見たことがなかったですね」
そして授賞式は、かつて映画館として建てられ、現在は劇場となっている「ロシア」で開催された。スクリーンはそのまま残っている。式典当日は、2階入り口に続く階段にレッドカーペットが敷き詰められ、大々的な国家イベントの設えとなった。
授賞式会場内で。左から大西さん、大森さん、平本さん、真木さん |
「内外観と巨大な空間を目の当たりにして、ソ連時代からの歴史を背負っているような重厚さと存在感を感じました。自分の知識と想像の範囲かもしれませんが、ここにどういう人が集っていたのか、どんな時代が移ろいでいったのかが中に入っただけで分かるような気がしました。もしかすると、何かその場を超越したものを感じてしまったのかもしれませんが」
外観は巨大な体育館とでもいうような、デザインや装飾にもこだわらない四角い建物だったと話す。
冬の劇場外観。プーシキン広場からつながる手前の階段から中に入る。 受賞式ではここにレッドカーペットが敷かれた |
「外観の見栄えにはこだわっていない感じがしました。あえてそうしているのかもしれないですね。それに比べて、中はふかふかのシートや素晴らしい内装が施され、プロジェクターなどの機器も最新鋭のものがそろえられています。そのちぐはぐさも不思議な印象として残っています」
2004年にフランス・パリの日本文化会館で、現代バレエ公演の音楽を担当した。
「音楽家として初めて建築空間と向き合ったときです。電子音楽の作品で、自分もコンピューターを演奏する作品でした。初めて音楽を担当する舞台公演が、いきなり厳しい評価の目があるフランスということで、大きなプレッシャーの中での仕事でした。空間の特性に合わせて音の響きをコントロールすることを初めて経験しました。数人の専属エンジニアがいて、相談にのってもらいながら観客全員が可能な限り等しい音響を体験できるよう、あらゆる席に座ってチェックしました。相当細かくチェックして大変でしたが、空間の特性を引き出せたかと思っています。この経験がその後の活動にとても役に立っています」
■アプローチの原点は『団地』
東京都町田市の藤の台団地で生まれ、幼少期を過ごした。同団地は、首都圏の人口が急増した1970年から入居を始めた旧住宅公団による大型団地(当初約1万6000人入居)。
「丘陵に同じ形の建物がいっぱい並んでいるのがぼくの建物の原風景です。今でも団地が好きで、近づいてずっと見ていることもあるんですよ。高校生くらいの時でしょうか、外も中の空間も同じだけど、住む人はそれぞれどんな使い方をするんだろうということを考えるようになりました。今、言葉を換えて言うと、一人ひとりの空間へのアプローチによって如実に違う空間ができるということです。これは実は、ぼくがいま作曲をするときに、膨大なソフトウエアを追加せずに、限られたソフトでほかの人がやらないことを探す発想に似ていて、原点は『団地』なのかもしれないと思います」
音楽の好き嫌いの判断が今は瞬間になったと指摘する。
「メディアが少なかった時代は、30秒とか1分聞いて良い曲だねなどの判断をしてくれましたが、瞬間的に膨大な量の音楽に触れることができる今は5秒かせいぜい10秒で判断されてしまいます。でも、過去の名曲も実は瞬間的に耳をとらえる曲が確かに多いので、音楽の本質に立ち戻っている気もします。イントロやサビへの技術的な『操作』を考えるのではなく、耳を肥やして、耳を信じて、自分がいいと胸を張れる曲を書いています。瞬間という意味では、建築の好みの判断も同じだと思っています」
(ひらもとまさひろ)作曲家。音楽レーベルTekna TOKYO主宰。1983年東京生まれ。東京藝術大学大学院音楽研究科修了。2006年より写真家・篠山紀信の映像作品digi+KISHINや展覧会の音楽を担当。15年にはコットンクラブにて、篠山紀信、橋本マナミとのコラボレーションコンサートを行う。
13年映画『さよなら渓谷』(監督:大森立嗣)の音楽を担当。第35回モスクワ国際映画祭にて審査員特別賞を受賞する。16年東京芸術劇場シアターイーストにて初のオペラ作品「OPERA-NEO-」を上演。全編コンピューター音楽による人類の未来と宇宙をテーマにしたオペラ作品を、建築家・鳴川肇、天文学者・田中雅臣とともに制作する。その他、振付家・金森穣、デザイナー・奥村靫正、演出家・前川知大など、様々な分野の精鋭とのコラボレーションや、蜷川幸雄演出の舞台作品「ジュリアス・シーザー」への楽曲提供など幅広い活動を行う。
現在、音楽を担当した映画『セトウツミ』(監督:大森立嗣)が公開中。また同作品のサウンドトラック「オリジナル・サウンドトラック『セトウツミ』」を配信中。16年10月8日から音楽を担当した映画『少女』(監督:三島有紀子)が公開予定。
平本正宏ウェブサイト:http://teknatokyo.com
■建築概要 アヴァンギャルドに連続する開放的な空間 早稲田大学助教・本田晃子さんに聞く
早稲田大学助教・本田晃子さん |
作曲家の平本正宏さんが、劇場「ロシア」について、歴史を背負ったような重厚さを感じたという点について、ロシアの表象文化論を研究する早稲田大学助教の本田晃子さんはこう話す。
「スターリンが死去した後の建築ですが、スターリン時代の巨大建築志向がまだ残っていたからだと思います。設計したユーリー・シェヴェルジャーエフの代表作『芸術家センター』も非常に大きな建物です。『ロシア』は巨大ではあるのですが、ファサードを全面ガラス張りにして、明るい透明な空間をつくっている点で、スターリン時代の歴史主義的な重厚で圧倒的な規模の建物とは違って、開放的な考え方に基づいています。スターリンに続く最高指導者、フルシチョフ時代の代表建築といえます」
軒がせり出しているのも建物の特徴で、透明感と合わせて、ロシアで1920年代に起こった建築運動、アヴァンギャルドとの連続性を意識して設計されているとも話す。
「アヴァンギャルドは、ヨーロッパのモダニズム運動に対応するもので、労働者のための合理的な建築物をデザインするという文脈で起こりました。この時代に活躍した建築家、コンスタンチン・メーリニコフの代表作に『ルサコフ労働者クラブ』という建築があるのですが、このキャンティレバーの構造を念頭に『ロシア』の軒のせり出しがデザインされたと言われています」
■建築ファイル
▽名称=劇場「ロシア」
▽所在地=モスクワ市中心部。モスクワの目抜き通りであるトヴェルスカヤ通りに面した、プーシキン広場の奥に位置。クレムリンからも徒歩10分ほど
▽オープン=1964年、映画館としてオープン。2012年から劇場として使われているが、スクリーンは残っている
▽設計=ユーリー・シェヴェルジャーエフ(シェヴェルジャーエフスタジオ所属のドミトリー・ソロポフ、エルミラ・ガジンスカヤも参加)
▽客席=メーンホール1753席
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