2015/12/06

【日本の土木遺産】金城の石畳道(沖縄県) 戦災くぐり抜けた300mの宿道、琉球王国の軍道路


 沖縄県那覇市金城地区には琉球王国時代(1429-1879年)から現存する石畳道がある。琉球王国時代には、首里城と間切(まぎり=現在の市町村)を結ぶ主要街道として、宿道(しゅくみち)と呼ばれた道幅2.4m(8尺)以上の道があった。その1つが首里城を起点とし、南西約3.5㎞にある国場(こくば)川を渡る真玉(まだん)橋を経由して那覇港南岸の住吉町までを結ぶ延長約8㎞の真珠(まだま)道である。真珠道は第2次世界大戦や戦後の道路整備によりほとんどが破壊されたが、この金城にある約300mの石畳道は約500年前からのものが残る。道幅は3.0-5.3m、宿道の定義からするとかなり広く、当時は大道と呼ばれていた。首里城南側の上間(うえま)や識名(しきな)地区を通る唯一の道であったため人馬の往来が多く、石畳道の中間地点では、夕方に小市場が開設されにぎわっていた。

 正式国名を琉球國と言う、1429年に尚巴志(しょうはし)王が琉球を統一して成立し、近隣の中国・日本・朝鮮・東南アジア諸国との交易によって栄えた国である。統一当初は、各間切の権力者である按司(あんじ)達の勢力が強く内乱が絶えなかった。77年、13歳で即位した尚真(しょうしん)王は国内を平定し、中央集権化を図り、外交・貿易を活発に進めていった。
 真珠道は1522年、その尚真王によって建造された。ただし、完成したのは首里城の守礼門から真玉橋までであった。26年に尚真王が没した後、子の尚清(しょうせい)王に引き継がれ、53年までには那覇港南岸に通じたのである。尚真王が真珠道を造った翌年には、国の統一持続のために各間切の按司を首里城下に移住させ、代理の按司を派遣した。按司を移住させた地区の1つが金城地区と言われている。ここは渇水に悩まされていた地区が多い中で、湧水が豊富であった。「ガー」と呼ばれる共同井戸が、金城地区の石畳道付近に4カ所確認されており、最大規模となる「金城大樋川(ウフフィージャー)」は現在でも水が湧き出ている。首里城に近く、渇水に悩まされることのないこの地は、上級階級のみに許された石垣が築かれ、按司や王に仕えた人びとが住むには最適な場所であったのだ。
 金城の石畳道は首里台地の南斜面に位置し、平均傾斜度が21.5%あり、部分的に階段構造となっている。石畳道には20-50cmの大きさの琉球石灰岩が敷き詰められている。これは南西諸島に広く分布する石灰岩で、更新世にサンゴ礁のはたらきで形成され、多くの気孔を含んでいて地下水を浸透させる。敷石は表面を小叩きして、滑らないように工夫されている。道脇には排水溝が両側もしくは片側に設置されている。
 また、真珠道は那覇港を防御する目的があったとされている。以前より海賊などに警戒する必要性があり、尚真王の時代になって、那覇港南岸地区の道の整備は重要なものとして位置付けられた。真珠道の落成式は「1522年4月9日最高神女の聞得大君(きこえおおぎみ)を始め、すべての神女が集まり神託をたまわった。すべての上下の軍人が礼拝し国の按司のため、王の政治のため祈った。また神女だけではなく300人の僧達もきて祈り祝った」と記されている。国を挙げての落成式は、いかに金城の石畳道を含む真珠道が軍用道路として重要だったことがうかがえる。
 琉球王国時代、中国から来た冊封使(さっぽうし)は400-500人が約半年間滞在したと言われている。その歓迎は大規模なものであった。催しは崇元寺(そうげんじ)、首里城、龍潭(りゅうたん)、識名園などの城の内外で行われた。そして首里城から識名園に向かった冊封使は、金城の石畳道を通ったとされている。この石畳道は冊封使の歓迎においても、その役割を十分に果たしてきたのである。 (片平エンジニアリング 佐藤尚)

■以上16回にわたって紹介した日本の土木遺産IIは、ダイヤモンド社刊『土木遺産IV ~世紀を越えて生きる叡智の結晶(日本編2)』、建設コンサルタンツ協会「Consultant」編集部編に詳しく書かれています。

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