香川県内の代表的な溜池は、大きな順に「満濃太郎」「神内次郎」「三谷三郎」といわれている。満濃太郎こと満濃池は、金毘羅さんで有名な香川県琴平町に隣接する仲多度(なかたど)郡まんのう町に位置する、日本最大の農業用溜池である。この大いなる溜池は、阿讃(あさん)山地を源流とする金倉川の狭窄部をアーチ型の土堰堤で堰き止めて築造され、1300年経た現在も変わらずに水を湛え、丸亀平野の水源となっている。
手を広げたような形の満濃池の貯水量は、 3度の嵩(かさ)上げ工事によって、現在では東京ドーム12杯分に相当する1540万m3を湛えるまでになった。溜池は周囲19.7㎞、最大水深30.1m、満水面積138.5haの規模だ。
満濃池は、大宝年間(700-704年)に国守の道守朝臣(みちもりのあそん)による築造に端を発している。
創築から110年を数えた嵯峨天皇時代の818(弘仁9)年に讃岐の国は大洪水に見舞われ、堤防が決壊している。復旧工事は難航し、国司は嘆願書を真言密教の祖である空海(弘法大師)に送った。空海は満濃池の本格的な土木工事を最初に行った人物といわれ、821(弘仁12)年の修築を指揮した。
空海は満濃池に近い讃岐国多度郡屏風ヶ浦(びょうぶがうら)の豪族佐伯氏の出身で、唐に渡って仏教の「五明(ごみょう)の学」を修め、土木工学にも精通していた。空海は堤防の形を、まだ当時の日本では見られなかった「アーチ型」にして、水圧に耐えられ決壊し難い構造にした。また、余分な水を外に出す「余水吐(よすいはき)」と呼ばれる調整溝を造った。土木事業でも画期的で効果的な偉業を成し遂げたのである。
源平争乱で世が騒然となっていた1184(元暦元)年の決壊を機に、満濃池から人々が離れていってしまった。満濃池はいつしかその機能を果たさなくなり、池の跡地には「池内村」と呼ばれる集落が形成され、450年近くもの長い間姿を消した。満濃池が再び利用されるようになったのは3代将軍徳川家光の時代である。
当時の4代目高松藩主生駒高俊は幼少で、外祖父の伊勢藩主藤堂高虎が後見役となっていた。
1626(寛永3)年の大干ばつによる讃岐の惨状を耳にした高虎は、家臣の土木家である西嶋八兵衛を讃岐へ出向させた。讃岐に居を構えた八兵衛は、長らく放置されていた満濃池の修築に乗り出したのである。八兵衛は工事前、空海が逗留した那珂郡南部の豪族矢原家を訪ねて『家記』を読み、空海の工事概要とその緻密さを知り驚嘆したと伝わっている。八兵衛は1639(寛永16)年まで讃岐にいる間、90余りの溜池の築造や修築にかかわったと言われている。
1854(安政元)年12月に、マグニチュード8.0以上の安政東海地震と安政南海地震が連続で発生した。これにより、土堰堤部材が水圧に耐えられず決壊してしまった。高松の松崎渋右衛門、倉敷の参事島田泰雄らの支援のもと、榎井(えない)村の長谷川佐太郎、金蔵(こんぞう)寺村の和泉虎太郎らの尽力により、土堰堤は復旧された。この時、堤防西隅の大岩に穴をあけトンネルを底樋とする工事を担当したのが、寒川郡富田中村の庄屋軒原庄蔵である。
庄蔵は自村の弥勒池に石穴をくり貫き井手(井路)を造った実績があった。工事に際して庄蔵は、自村の数学者荻原栄次郎や田面村の多田信蔵らの知恵を借りた。そして、延長50m、内径1.0mの石穴を両坑口から掘り進み、中央で誤差なく合致させたのである。これには当初、工事を危惧していた藩役人たちも感嘆したと言う。この後庄蔵は、高松藩開拓御用掛りとなり、廃藩置県後は香川県地券係として生涯公共工事に携わり、1890(明治23)年に61歳で他界した。
(国際航業 加藤英紀)
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手を広げたような形の満濃池の貯水量は、 3度の嵩(かさ)上げ工事によって、現在では東京ドーム12杯分に相当する1540万m3を湛えるまでになった。溜池は周囲19.7㎞、最大水深30.1m、満水面積138.5haの規模だ。
満濃池は、大宝年間(700-704年)に国守の道守朝臣(みちもりのあそん)による築造に端を発している。
創築から110年を数えた嵯峨天皇時代の818(弘仁9)年に讃岐の国は大洪水に見舞われ、堤防が決壊している。復旧工事は難航し、国司は嘆願書を真言密教の祖である空海(弘法大師)に送った。空海は満濃池の本格的な土木工事を最初に行った人物といわれ、821(弘仁12)年の修築を指揮した。
空海は満濃池に近い讃岐国多度郡屏風ヶ浦(びょうぶがうら)の豪族佐伯氏の出身で、唐に渡って仏教の「五明(ごみょう)の学」を修め、土木工学にも精通していた。空海は堤防の形を、まだ当時の日本では見られなかった「アーチ型」にして、水圧に耐えられ決壊し難い構造にした。また、余分な水を外に出す「余水吐(よすいはき)」と呼ばれる調整溝を造った。土木事業でも画期的で効果的な偉業を成し遂げたのである。
源平争乱で世が騒然となっていた1184(元暦元)年の決壊を機に、満濃池から人々が離れていってしまった。満濃池はいつしかその機能を果たさなくなり、池の跡地には「池内村」と呼ばれる集落が形成され、450年近くもの長い間姿を消した。満濃池が再び利用されるようになったのは3代将軍徳川家光の時代である。
当時の4代目高松藩主生駒高俊は幼少で、外祖父の伊勢藩主藤堂高虎が後見役となっていた。
1626(寛永3)年の大干ばつによる讃岐の惨状を耳にした高虎は、家臣の土木家である西嶋八兵衛を讃岐へ出向させた。讃岐に居を構えた八兵衛は、長らく放置されていた満濃池の修築に乗り出したのである。八兵衛は工事前、空海が逗留した那珂郡南部の豪族矢原家を訪ねて『家記』を読み、空海の工事概要とその緻密さを知り驚嘆したと伝わっている。八兵衛は1639(寛永16)年まで讃岐にいる間、90余りの溜池の築造や修築にかかわったと言われている。
1854(安政元)年12月に、マグニチュード8.0以上の安政東海地震と安政南海地震が連続で発生した。これにより、土堰堤部材が水圧に耐えられず決壊してしまった。高松の松崎渋右衛門、倉敷の参事島田泰雄らの支援のもと、榎井(えない)村の長谷川佐太郎、金蔵(こんぞう)寺村の和泉虎太郎らの尽力により、土堰堤は復旧された。この時、堤防西隅の大岩に穴をあけトンネルを底樋とする工事を担当したのが、寒川郡富田中村の庄屋軒原庄蔵である。
庄蔵は自村の弥勒池に石穴をくり貫き井手(井路)を造った実績があった。工事に際して庄蔵は、自村の数学者荻原栄次郎や田面村の多田信蔵らの知恵を借りた。そして、延長50m、内径1.0mの石穴を両坑口から掘り進み、中央で誤差なく合致させたのである。これには当初、工事を危惧していた藩役人たちも感嘆したと言う。この後庄蔵は、高松藩開拓御用掛りとなり、廃藩置県後は香川県地券係として生涯公共工事に携わり、1890(明治23)年に61歳で他界した。
(国際航業 加藤英紀)
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