2015/09/13

【日本の土木遺産】三滝ダム(鳥取県) 実質12カ月で施工された日本最後のバットレスダム


 鳥取市内から千代(せんだい)川に沿って車で30㎞ほど南下すると、智頭町の桜並木の美しい土手が見えてくる。そこから千代川の支流である北股川沿いに車を走らせ、紅葉の名所として知られている芦津渓を通り過ぎると小さなダム湖が姿を現す。

 この湖の水を受け止めているダムは、湖側からはごくありふれたダムにしか見えないが、ダム脇の遊歩道を歩いて下流側にまわると全く予期しない光景が目に飛び込んでくる。支壁と梁によって格子状に組まれ、ダムの内部が露わになっているその構造は、初めて目にする人には驚きを与えるであろう。この珍しい形状を持つダムこそ、日本で最後に建設されたバットレスダム「三滝ダム」である。1937(昭和12)年に完成した堤高23.8m、堤頂長82.5mの発電用ダムである。
 バットレスダムとは、水圧を受ける鉄筋コンクリート版(遮水壁)をバットレス(扶壁=ふへき)によって支える構造で、日本では扶壁式ダムとも呼ばれる。日本のバットレスダムは、23(大正12)年に函館市水道局が建設した笹流(ささながれ)ダムを皮切りに、三滝ダムまでの14年間で8基しか建設されず、6基のみ現存する希少な構造物である。
 前々からこの三滝の地に着目していた姫路水力電気の社長・内藤利八は、神戸、明石、加古川地方の工場への電力供給を目的とした電力会社の設立を計画し、周辺村会の反対がありながらも、12(明治45)年に鳥取県知事から水利権の認可を受けた。
 18(大正7)年には山陽水力電気が設立され、社長に利八が就任した。しかし、地元住民の反対などでなかなか発電所建設に着手することはできなかった。地元町村との地道な交渉を経て同意が得られ、北股川に大呂発電所、河合発電所を完成させることができたのは23(大正12)年のことであった。
 山陽水力電気は、その後親会社の変更などを経て、芦津発電所と三滝ダムの建設に着手したのは35(昭和10)年12月のことであった。
 三滝ダムの設計者に関する記録は残念ながら残っていない。しかしダムの構造から考えると、日本に残るバットレスダムのうち、最大貯水量を誇る群馬県片品村にある丸沼ダムなどの設計を手掛けた物部長穂(もののべながほ)の『耐震設計法』にならって設計されていると考えられる。
 芦津発電所と三滝ダムの工事を指揮したのは、九州帝国大学を卒業したばかりの宮川正雄であった。
 三滝ダムの施工に当たり、正雄はまず資材運搬のために北股川沿いに敷設されていた大阪営林署管轄の沖ノ山森林鉄道を付け替えることから始めた。河岸にあった軌道を三滝ダムの天端に合わせて15.5mかさ上げするために、ダムを中心に総延長1.1㎞区間を付け替えた。
 また、芦津発電所建設のために500mの専用軌道も敷設した。なお、この森林鉄道に機関車が導入されたのは42(昭和17)年のことなので、それ以前に完成したダムの建設資材は、牛や馬に牽引されて運ばれたと思われる。
 標高700mに位置するダム工事は12月に着手されたが、間もなく積雪のため翌年4月まで中断せざるを得なくなった。翌冬も積雪により同期間中断していたため、着工から竣工までの20カ月間のうち8カ月近くは中断していたことになり、実質約12カ月の期間で三滝ダムは施工されたことになる。
 雪に阻まれながらこのような短期間でダムを竣工させたのは正雄の手腕によるものであろう。 (基礎地盤コンサルタンツ 佐々木勝)
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