2006年9月、東京~岐阜間に相当する全長400㎞の高速道路を工期40カ月で完成させる「アルジェリア・東西高速道路建設プロジェクト」がスタートした。その着工から約10年、土木学会(田代民治会長)が主催するセミナーで、総合所長を始めとするJVメンバーが、これまでベールに包まれていた工事と係争の変遷を明らかにした。日本の建設業界が海外展開する際、大きな教訓となることは間違いない。日本人800人を含む3万人弱ものJVが経験した貴重な知見を紹介する。
■苦難の施工
工事は全長400㎞の中に、インターチェンジ(IC)19カ所、3本の複線トンネル、11カ所の原石山開発、骨材の300㎞輸送などが含まれていた。施工中には、切土の地滑りが171カ所で頻発、T1トンネルはアルジライトの膨張性地山で200mmのH鋼を座屈させて崩落した。
アルジェリアの位置 |
発注時に渡された概略予備設計(APS)と詳細予備設計(APD)は古く不正確で、地盤調査は少なく地形図は紙ベースだった。
測量時の基準点はほぼ消失、座標系の不整合もあった。こうした図面の再作成、欧州規格への適合も、JVが行わなくてはならない。また、現設計では山側でトンネルが多かったルートは、工区の3割を工費の安い海側にVEルート変更も行っている。ほかにJV自らが航空測量を実施したり、工事基準点として、スペインとイタリアのGPS(全地球測位システム)基準点からGPS基準局を設営、3次元ICT(情報通信技術)建機も活用している。
■そして係争へ
08年末、これまで部分的だったJVから発注者へのクレームは次第に増えていった。クレームの原因は、不完全な入札図書、5400億円の工事額に対してICの追加を除いた予算シーリングが5440億円に設定され、増額の設計変更が認められないことだ。
JVは09年に8人編成のクレームチームを編成し、これまで別々に行っていた7つのすべてのCAMPのクレームをとりまとめた。翌年から「アブナン」と呼ばれる追加契約を5つ作成して交渉に臨んだが、13年に総額650億円、15年に150億円の追加契約3つをとりまとめた。
一方、現場では月次の追加査定が7、8割まで抑えられ未払いや資金不足で、出資金では費用を賄えない事態へと発展していった。
その年の7月には出来高分の未払いも発生、11月8日には延長分を含めた工期が切れた。
14年6月、発注者から既完成分までを含めた契約解除督促状が送られ、8月にすべてのボンドが期限を迎えた。このころからJVは、国際的な仲裁の道筋へと方針転換した。パリの国際弁護士事務所を代理人に、国際商業会議所(ICC)国際仲裁裁判所に申し立てを行い、仲裁が始まった。仲裁が成立すれば、その決定は重い。
15年5月、4人目のアルジェリアの公共事業省大臣が就任、翌月に藤原聖也駐アルジェリア特命全権大使と会談したことで風向きは変わる。9月までに行った5回にわたる協議で、仲裁を望まないアルジェリア側が和解を目標とした進め方に同意、同時に仲裁手続きを停止した。その後は和解協議を続け、ことし2月に和解の基本合意、6月末に国家承認、7月26日、JVとアルジェリア政府が署名して即日和解が成立した。
■国外の心構え
アルジェリア東西高速道路JV(COJAAL)の工区構成 |
初代所長で09年末まで現地を担当した石田稔氏は「書類などをすべて仏語で作成する難しさと、規模の大きさにとまどった」という。
土肥穣総合所長は、今回の工事と係争を通して、国外での工事に改めて必要だと思われることを振り返る。
それは(1)日本の人材だけでなく、他国のエンジニアを確保すること(2)契約に対する意識と、対象国の法律や税制を知っておくこと(3)日本とは違う海外の技術基準を勉強すること(4)相手発注者に対して言いたいことは必ず言っていくこと--だと話す。
■和解、後日談
無事、和解に至ったこの工事は、第3契約124㎞のうち、東側の85㎞を未開通のまま残した。
工事関係者は「未完のまま終わったことは、技術屋として悔しさが残る」というが、アルジェリア側は今後、国内企業の手で建設することにしている。同国には既に技術移転が終わり、外貨を流出せずに建設できることと、日アの友好関係が保たれたことにある程度満足しているもようだ。
西側と中央の800㎞を担当した中国企業も、いまだに最終精算は終わっていない。
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