「3Dスキャナーもない時代にカッター1つで異様な精度を出す。その模型を見て、もしコンペを担当する時が来たらぜひつくってほしいと思った」--。日建設計執行役員設計部門副総括で山梨グループ代表の山梨知彦氏が入社したのは1986年。新都庁舎コンペの前年で、その時に廣畑哲治氏の建築模型を初めて目の当たりにしたという。山梨氏が「マエストロ」と呼ぶ、この模型づくりの達人は、日建設計の「顔」であり、戦後わが国を代表する建築家の一人でもあった故・林昌二氏に見込まれ、その代表作のほとんどの模型を製作。「林さんのイメージを最初に三次元にし、それをフィードバックしてインスピレーションを与えた」存在だったと指摘する。
クライアントへのプレゼンテーション当日の朝、未完成だった模型を前に誰もが真っ青になる中、おもむろに現れ、『キュッキュ』と音を立てながらものの数分で仕上げていった--。日建設計でいまも語りぐさになっている「パレスサイドビル伝説」だ。言わずとしれたわが国モダニズム建築の名作は、限られた工期の中で躯体工事を先行して着工し、繊細なファサードのデザインは現場段階で固めていった。
◆名建築に伝説あり
当時、廣畑氏は東京芸大の1年生。寮の先輩から引き継いだアルバイト学生だった。「空間に目覚めたのは林さんの模型を担当してから。林さんは満足しない男でアイデアを次々に持ってくる。あまりにも建築が面白くなって毎日すごい時間を模型づくりに費やした」という。大学卒業後、渡仏してジャック・カリス設計事務所で設計を学び、帰国後、林氏に招かれ1978年から日建設計の模型製作を担ってきた。
◆曲尺、刃先まで研ぐ
一方、入社3年ほどで林チームに入った山梨氏は「公共建築のコンペではスタイロフォームなど限られた材料でつくるため、どこも同じボリューム模型のようなものが出てくるが、ぼくらだけすごい繊細な模型だった」と振り返る。「とにかくピン角の精度がまるで違う。クライアントは石膏でつくったのかとよく間違えた」という。
社内にある廣畑氏の工房にはいくつもの曲尺(かねじゃく)が並ぶ。それは「どれも真っすぐじゃない。頼りにならないから何本も買ってきてヤスリで研ぐ」からだ。「0.1mmが確実に見える定規をつくった」「必要に応じてPカッターの刃先も研ぐ」といった細部までの徹底したこだわりがその精度を支えている。
廣畑哲治氏「模型で設計を支える」 |
日建設計はBIM(ビルディング・インフォメーション・モデリング)を推進する一方、廣畑氏を含めて現在、模型製作の専属スタッフも4人いる。
◆ICT時代も必要
「神保町シアターやホキ美術館もBIMでつくったと言いながら、かなりの部分を模型で考えている。考えながら模型をつくる。考えるために模型をつくる。マエストロの手を借りながら考える。寸法の感覚、ものづくりの感覚、コンマの感覚は廣畑さんから学んだ。林さんもこうやれば収まるのだと廣畑さんの手を使って考えていたのではないか」と語る山梨氏に対し、「模型で設計を支える人生に悔いはない」と言い切る廣畑氏。
山梨知彦氏「コンマの感覚を学んだ」 |
都内であれば必ず現場に行って「そのまちに飛び込み、日常を考えながら頭の中に入れ込む。悩んで悩んで考え抜く」というものづくりの姿勢に、山梨氏は「模型を通して一緒に考える。これは日建の伝統だ。ICT(情報通信技術)時代にあっても日建設計は模型をつくり続ける」とエールを送る。
◇日本建築文化保存協会連続講演会第2回「建築模型を考える」-日建設計はなぜ、建築模型をつくってきたか(10月26日開催)より】
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