2015/06/14

【日本の土木遺産】藤倉ダム(秋田市) 計画頓挫3度、内務省土木局技師が完成させた偉業

秋田市の北東約10㎞、雄物川の支流である旭川の上流となる藤倉には、堰堤を流れ落ちる水紋がとても美しい藤倉ダムがある。
 正式には藤倉水源地水道施設といい、1903(明治36)年に着工し、11(明治44)年に完成した。東北地方では青森県むつ市の大湊第一水源地堰堤に次いで2番目に古い水道用のダムである。
 秋田市民の水を担った藤倉ダムは70年近くの永きにわたり活躍したものの、秋田市の水道拡張計画に伴う雄物川への水源の切り替えにより、73(昭和48)年に取水が停止された。

 沈殿池のあった場所は、水道記念公園として整備され親しまれている。ダムは都市の喧騒空間から離れ、四季折々に変化する自然景観の中に鎮座しており、堰堤を越流する逞しい水音が静寂な中に響きわたっていた。春の花見シーズンは特に盛況である。
 85(昭和60)年に近代水道100選に選ばれ、93年には全国で初めて建造物の重要文化財である近代化遺産として指定された。大分県の白水ダムと愛知県の長篠堰堤余水吐とともに日本3大美堰堤の1つといわれる。
 1874(明治7)年、まずは東京から移住した企業家柴村藤次郎と吉岡重次郎が水道敷設を計画した。しかし、無料であった水が有料になることもあってか、住民の理解が得られず着工に至らなかった。同時期、秋田の柳谷安太郎ら37人も水道会社の設立を計画するも、賛同者が少なかったため実現しなかった。
 88(明治21)年には、秋田の富豪佐伯孫三郎と貞治父子が私財を投じ、旭川の上流を水源地と定める水道敷設計画を県に出願し許可された。父子は各地の水道施設を視察し、布引ダムを含む神戸市の水道施設の設計を行ったイギリス人技師W・K・バルトンの指導を仰ぎ、計画書を作成した。計画は実行に移されたが、父子の財政破綻から事業は断念せざるを得なかった。
 その後は、秋田市が直轄で行うこととし、水道創設委員会などを設置していくつかの水道敷設を計画するが、大火や水害などで市の財政が逼迫し、いずれも実現に至っていない。
 99(明治32)年になり、秋田市は内務省に技師の派遣を要請した。一度はバルトンに決定されるも同氏の死亡により、内務省土木局技師中島鋭治が派遣されることとなった。鋭治は旭川上流地域の詳細な現地調査を行い、水源地として藤倉の地を決定し、沈殿池、ろ過池、浄水池などの築造計画が完成した。
 現在藤倉ダムは、本堰堤、副堰堤、放水路、護岸工、堤上架橋が原型をとどめているが、砂防堤や流材防備工は確認できない。重力式粗石コンクリートダムの本堰堤は高さ16.3m、頂部の長さ65.1mである。堰堤表面に張られた粗石が、美しい水流を造形している。
 洪水時は本堰堤の越流だけでは増加した水量に対応できないため、本堰堤の右岸側の岩盤を掘削し、本堰堤より0.9m低くした放水路を設置した。放水路の延長は約120m、幅は約15m、間知石(けんちいし)による護岸工を施し、底面には切り石と玉石を敷き詰めた。
 放水路には高さ0.9mの堰を設け、通常時は4カ所の角落しにより流量調整をし、洪水時にはこれを撤去して放水し、流木の流下にも対応した。角落しの対応に木橋が架けられていたが、現存していない。
 本堰堤と同時に完成した管理用の橋は、長さ30.6m、幅約1.7mの曲弦ワーレントラス橋である。真っ赤な橋は現役であり、原位置に存在する道路トラス橋としては日本最古のものである。藤倉ダムの施設には、当時の日本の土木技術が駆使されており、先人たちの偉業を今に伝えている。  (元東京建設コンサルタント 和田 淳)
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