水戸市の水戸芸術館で開催されている企画展「3・11以後の建築」にあわせ、この展覧会のゲスト・キュレーターである建築史家で東北大大学院教授の五十嵐太郎氏=写真左=とコミュニティーデザイナーでstudio-L代表の山崎亮氏=写真右=による対談「『3・11以後の建築』のその後」が23日、同館会議室で開かれた。震災によって何が引き起こされ、建築家と建築界はそれにどう立ち向かうべきか。その中で問われていることは、少子高齢化が進展し人口減少に直面する地域社会を衰退ではなく成熟へと導く意志であり、デザインの本質でもある。
被災地である仙台市内の大学で教鞭を執る五十嵐氏は、震災後、いち早く立ち上がった建築家による復興支援ネットワーク、アーキエイドの設立発起人の一人。その活動の特色として、「沿岸部の浜に点在する漁村集落に手を差し伸べていること」だと指摘する。「大きな資本が投下されやすい都市」に対して「見落とされがちな小さなコミュニティー」に建築家や在仙大学などの研究室から教員や学生が出向き、現場でのリサーチやワークショップを通じて住民の声を拾い上げ、丁寧に個別の解決策を提案していく。そうした活動に参加した学生は「それがデフォルト(初期設定=当たり前)として今後、建築の世界に入っていく。それがどう建築の世界を変えていくのか、注目している」という。
他方、津波や地震は「ある意味、特殊な事例」であって、その結果引き起こされているものとは何かに着目すべきだとも語る。その一つが被災地における急激な人口減少であり、それは「20年後、30年後の日本の課題を前倒しして考えなければならない状況を生み出している」。建築というハードをいかにつくるか、という視点だけでは解決できない問題であり、人と人とのつながり、まちと人とのつながりといったソフト面からのアプローチが重視されることになる。
こうした流れは「3・11以後と言いながらも、この展覧会で取り上げたものは2000年代からの15年くらいのスパンで入っている」という言葉のとおり、「徐々にじわじわと社会や建築が変質していって、それが可視化したのが『3・11』だったということ」でもある。
1995年の阪神・淡路大震災当時、大阪在住の学生として応急危険判定にもかり出されたという山崎氏も「タイトルは『3・11以後』だが、感覚としては95以後ととらえてしまう」という。自身のこの震災経験が形としてのデザインより、人と人をつなぐデザイン、コミュニティーデザインへと進む大きなきっかけとなったわけだが、かつて「姿形だけ競ってもしようがないと朝まで議論した」ことに「3・11以後は共感してくれる東京の建築家が増えている。身近なところで経験しなければリアリティーをもって語れないのだということを改めて感じる」とも。
長く続いた経済の停滞は、建築の世界でもロストジェネレーションを生みだした。特に地方において今、若い建築家が新築プロジェクトに巡り会う機会はごく限られたものとなる。それは必然的に「建築以外の仕事、ものとしての空間ではない領域」(山崎氏)に分け入っていかなければならない状況をもたらし、結果として「使い手と一緒につくっていこうというものが地方には多いのではないか。地域にある資源を見直す、人間関係を含めてそこにある資源でつくる。地域の価値を高め、それがどういうお金の循環を生むのかまで考える。そういう建築家が地方から出始めている」
被災地においても「デザインに力を注ぐとムダにお金を使っているという誤解を招きやすい」とは五十嵐氏。「同じ予算でもデザインの質を上げてより良い建築ができれば本来は評価されるべきだが、災害公営住宅でも焼け太りしたのではないかという批判を恐れて設計の際に目立たないようにと言われるケースもある。いまはアカウンタビリティー(説明責任)がすごく求められているということ。なぜこれをつくるのか、確認し共有してつくりだしていくプロセスがないとナショナルプロジェクトですらクラッシュする。そういう意味でもデザインが問われている」
同展は2016年1月31日まで開かれている。
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