4年前の3月11日。当時、東京都副知事を務めていた作家の猪瀬直樹氏は、自身のツイッターアカウントに転送された、たった124文字のメッセージに目をとめる。宮城県気仙沼市中央公民館に子ども十数人が取り残されているという。東京消防庁の防災部長と協議し、翌朝に東京都のヘリを派遣すると、446人もの人々が懸命に生きようとしていた。ことし1月に出版されたこの『救出』は、猪瀬氏が副知事時代、実際に体験した救出劇をつづったドキュメントだ。
猪瀬氏は、作家として多くの作品を上梓しているが、今回の作品のキーは「偶然の必然だ」という。
孤立した公民館から発信された一通のメッセージは、地球の裏側ロンドンに飛んで形を変え、東京にいる縁もゆかりもないはずの零細企業の社長によって、ついに東京都副知事と防災部長に届く。
本書に込めたのは「多くの人生が呼び込む偶然を積み重ね、次第に救出という必然へと昇華させた“奇跡のリレー”を描きたかった」という思いだ。
この本に猪瀬氏自身のエピソードは、あまり出てこない。
「取り残された446人が主役で、彼らがどうやって生き残ろうとしたかがテーマ。題名は“救出”だけれども、あとになって“脱出”の方がよかったと思った」と笑う。
■中央公民館
ここで本の内容に少し触れたい。
震災当日、三陸沿岸の南気仙沼では、気仙沼市中央公民館が2階の天井まで津波に浸かっていた。避難し取り残されたのは、ゼロ歳児から老人までの446人。立すいの余地もない3階と屋上で、周囲を津波火災に取り囲まれながら、地元の土木業者、工務店、倉庫屋、製氷工場、魚加工場など多くの中小企業でたくましく生活する人々が連携し、保育士や子どもたちと懸命に生き延びようとしていた。
しかし、水の引きはゆっくりで外への避難もできず、夜になると重油と、がれき、ガスボンベなどが引き起こした火災も公民館を取り囲んでいた。
その中に保育園のゼロ歳児から5歳児の71人もの幼児も含まれており、障害児童施設の内海直子園長が、家族と取り交わしたメールが、次第に奇跡のリレーを始める。
■ツイート
副知事室に転送されたのは、以下の124文字のツイートだ。
「障害児童施設の園長である私の母が、その子どもたち十数人と一緒に、避難先の宮城県気仙沼市中央公民館の三階に取り残されています。下階や外は津波で浸水し、地上からは近寄れない模様。もし空からの救助が可能であれば、子供達だけでも助けてあげられませんでしょうか」
ロンドンにいる園長の息子が、140文字という制限の中で、海外で必要な交渉ロジックを駆使して組み立てた文章だ。具体性があり、現状と目的が明確な文面は、副知事と防災部長を動かす。
■世界と気仙沼
猪瀬氏は、「446人を救った救出劇実現に寄与したのは、気仙沼という一見ローカルなイメージを持つ町が備えていた国際ハブ機能だ」という。
「気仙沼を訪ねたときに“割烹世界”という割烹店があったことを知り、なぜこんな名前をつけたのか不思議だったが、外国航路の船舶が寄港したり、古くから海外との交流があった地域だった。メッセージを作った園長の息子は、こんな背景からロンドンに渡り、ユダヤ人社会でジュエリー関係の仕事に就いていた」
「これ以外にも、園児を気丈に避難させ、一人も欠かすことなく助けた園長も、幼少時には酒屋の娘として育ち“じゃりんこチエ”のような生活をしていて、たくましい気性を養っていた」
本書には、ほかにも多くの人々が登場するが、その中の1人でも欠けていれば、446人が全員生還できたかはわからない。
「1つでもピースが欠けていては、この話は生まれなかった。見えないものを見えるようにして必然の糸を導き出すのが、ノンフィクションの肝」なのだという。
■再会
震災から1年半がたった2012年9月、本書の題材となった障害児童施設気仙沼市マザーズホームと一景島保育所が再建され、猪瀬氏は開所式に出席した。園児たちから、踊りやお礼の手紙が読まれた。
「あの日、一番体の弱い乳児に与えるミルクもなかった。ヘドロから拾ったガムシロップを指にとって与えると、力強く吸い付いてきた。緊迫と奇跡を描くこの本は、次の防災のための教訓としても役立ててほしい」
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猪瀬氏は、作家として多くの作品を上梓しているが、今回の作品のキーは「偶然の必然だ」という。
孤立した公民館から発信された一通のメッセージは、地球の裏側ロンドンに飛んで形を変え、東京にいる縁もゆかりもないはずの零細企業の社長によって、ついに東京都副知事と防災部長に届く。
本書に込めたのは「多くの人生が呼び込む偶然を積み重ね、次第に救出という必然へと昇華させた“奇跡のリレー”を描きたかった」という思いだ。
この本に猪瀬氏自身のエピソードは、あまり出てこない。
「取り残された446人が主役で、彼らがどうやって生き残ろうとしたかがテーマ。題名は“救出”だけれども、あとになって“脱出”の方がよかったと思った」と笑う。
■中央公民館
ここで本の内容に少し触れたい。
震災当日、三陸沿岸の南気仙沼では、気仙沼市中央公民館が2階の天井まで津波に浸かっていた。避難し取り残されたのは、ゼロ歳児から老人までの446人。立すいの余地もない3階と屋上で、周囲を津波火災に取り囲まれながら、地元の土木業者、工務店、倉庫屋、製氷工場、魚加工場など多くの中小企業でたくましく生活する人々が連携し、保育士や子どもたちと懸命に生き延びようとしていた。
しかし、水の引きはゆっくりで外への避難もできず、夜になると重油と、がれき、ガスボンベなどが引き起こした火災も公民館を取り囲んでいた。
その中に保育園のゼロ歳児から5歳児の71人もの幼児も含まれており、障害児童施設の内海直子園長が、家族と取り交わしたメールが、次第に奇跡のリレーを始める。
■ツイート
副知事室に転送されたのは、以下の124文字のツイートだ。
「障害児童施設の園長である私の母が、その子どもたち十数人と一緒に、避難先の宮城県気仙沼市中央公民館の三階に取り残されています。下階や外は津波で浸水し、地上からは近寄れない模様。もし空からの救助が可能であれば、子供達だけでも助けてあげられませんでしょうか」
ロンドンにいる園長の息子が、140文字という制限の中で、海外で必要な交渉ロジックを駆使して組み立てた文章だ。具体性があり、現状と目的が明確な文面は、副知事と防災部長を動かす。
■世界と気仙沼
猪瀬氏は、「446人を救った救出劇実現に寄与したのは、気仙沼という一見ローカルなイメージを持つ町が備えていた国際ハブ機能だ」という。
「気仙沼を訪ねたときに“割烹世界”という割烹店があったことを知り、なぜこんな名前をつけたのか不思議だったが、外国航路の船舶が寄港したり、古くから海外との交流があった地域だった。メッセージを作った園長の息子は、こんな背景からロンドンに渡り、ユダヤ人社会でジュエリー関係の仕事に就いていた」
「これ以外にも、園児を気丈に避難させ、一人も欠かすことなく助けた園長も、幼少時には酒屋の娘として育ち“じゃりんこチエ”のような生活をしていて、たくましい気性を養っていた」
本書には、ほかにも多くの人々が登場するが、その中の1人でも欠けていれば、446人が全員生還できたかはわからない。
「1つでもピースが欠けていては、この話は生まれなかった。見えないものを見えるようにして必然の糸を導き出すのが、ノンフィクションの肝」なのだという。
■再会
震災から1年半がたった2012年9月、本書の題材となった障害児童施設気仙沼市マザーズホームと一景島保育所が再建され、猪瀬氏は開所式に出席した。園児たちから、踊りやお礼の手紙が読まれた。
「あの日、一番体の弱い乳児に与えるミルクもなかった。ヘドロから拾ったガムシロップを指にとって与えると、力強く吸い付いてきた。緊迫と奇跡を描くこの本は、次の防災のための教訓としても役立ててほしい」
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